講和と徹底抗戦──なぜ二つの戦争は異なる終わり方をしたのか

戦争と社会の構造
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※この記事はシリーズ「戦争はなぜ終われなかったのか」の第3回です。(全5回)

第一次世界大戦は「講和」で、第二次世界大戦は「無条件降伏・徹底抗戦」で終わった──。
この違いは、単に戦局や指導者の性格の差ではなく、国民感情・体制構造・戦争観の違いが生んだものである。
本稿では、その構造的違いを5つの視点から分析し、「戦争がどう終わるか」に人間社会の深層を探る。

「講和」という選択──第一次世界大戦の“政治的敗北”の構造

1918年11月、ドイツは第一次世界大戦を終わらせた。
その終わり方は、戦場での決定的な敗北ではなく、「講和(休戦協定)」という政治的プロセスによるものだった。

しかし、この講和は単なる外交交渉ではなく、事実上の敗北宣言だった。
では、なぜドイツは「徹底抗戦」ではなく「講和」を選んだのか?
それは、戦局だけでなく、体制と国民心理が“抗戦を選べない構造”に陥っていたからである。

軍が敗北を認め、政治に投げた

1918年秋、西部戦線のドイツ軍は英仏・米連合軍の圧倒的物量に押され、崩壊寸前だった。
ルーデンドルフ将軍は9月末には「軍事的勝利は不可能」と明言し、戦争終結を政治の手に委ねるよう求めた

この時点でドイツ軍部は、「この戦争はもう続けられない」と内部では理解していた。
しかし、自分たちが責任を取ることは避けたかった。
→ そこで、民政への政権移譲=講和責任の押しつけが行われる。

政体の崩壊と「名目上の講和」

11月、国内では水兵の反乱をきっかけに革命が広がり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位、帝政は崩壊。
社会民主党を中心とする臨時政府が樹立され、休戦協定の調印を担当することになる

つまり、「戦争を始めた体制」は崩壊し、「戦争を終わらせる体制」が新たに登場した。
ここに、国民感情とのズレが生まれる。

  • 戦争を始めた皇帝も、戦略を指揮した軍部も消えた
  • 新政府が「急に現れて」講和した

→ この責任の継承のなさが、「裏切り」や「神話(背後の一撃)」の土壌となった

「徹底抗戦」がなかった理由

  • ドイツ本土はまだ戦場になっておらず、市街戦も爆撃もなかった
  • 軍も国土防衛のための最終戦ではなく、前線での撤退戦だった
  • 体制崩壊により、抗戦を命じる統治主体が不在だった

戦える状態ではなかったのではなく、“戦い続ける政治的理由がなかった”のである。

講和は政治判断だった、だから曖昧だった

結果として、ドイツは「負けを受け入れた」のではなく、「これ以上続けても無駄だという判断」で戦争をやめた。
そのため国民の間には、「戦場では負けていなかった」「もっと戦えたのに」という感情が残る。

これは、「現実の敗北」と「敗北の納得」の間にズレが生じた瞬間であり、
このズレこそが、「講和」が後に混乱を生むことになる根源だった。

猿トル
猿トル

「負けを認めた」のと、「もうやめる」を選んだのは、似てるけど違うんだよね。
講和って、“納得できない敗北”を生みやすい終わり方なんだ。

徹底抗戦しか残らなかった──第二次世界大戦の“総力戦体制”

第一次世界大戦のドイツは「講和」によって戦争を終わらせたが、第二次世界大戦ではそうはいかなかった。
ベルリンが包囲され、ヒトラーが自殺するその瞬間まで、ドイツは国家ぐるみで“徹底抗戦”を続けた
なぜ「終わらせる選択」が消えてしまったのか──。
その理由は、戦局以上に、国家と社会が“総力戦”という構造に組み込まれていたことにある。

「総力戦」とは、戦場だけではない戦争

第二次大戦のドイツは、第一次と違い、国家のあらゆるリソースが戦争のために動員された

  • 子どもはヒトラーユーゲントに、女性は武器工場に、老人も自警団に。
  • 科学者・芸術家・企業家までもが軍需・宣伝に組み込まれた。
  • 政治もメディアも教育も、戦争の継続を前提とする設計だった。

つまり、戦争は「やる」ものではなく、「やめられない生活」になっていた。

終わらせようとする言動そのものがタブーだった

ナチス体制下では、「敗戦を語ること」が裏切り者・反逆者のレッテルを意味した。

  • 民間でも「戦争に疑問を持つこと」は密告されるリスクがあった。
  • 軍人が「もはや勝てない」と言えば、処罰または更迭された。
  • ヒトラーは“最後の逆転劇”を煽り、メディアもそれに従った。

→ 結果として、戦争を終わらせようという言葉そのものが「消された」社会が成立した。

戦場が本土に移動し、逃げ場がなくなった

1944年以降、連合国の空襲が本格化し、ドイツの都市は次々と焦土と化した。
ソ連軍は東から迫り、一般市民も直接的に「殺される側」になった

  • 市民の多くが「戦いたくない」と思っても、降伏すれば報復されるという宣伝が支配。
  • 特に東部(ソ連軍方面)では、捕まる=略奪・強姦・殺害と信じられていた。

→ ここでの「徹底抗戦」は、“狂気”ではなく、“生存本能の延長”でもあった。

国家と社会が「戦争以外の道を知らなかった」

ナチス政権は、教育から思想、経済までを「戦争目的化」していた。

  • 子どもは軍事教練を受けて育ち、政治は戦争継続を前提に回っていた。
  • 人々はすでに、「平和がどう始まるか」を忘れていた。

戦争をやめることは、ただの政策変更ではなく、国家システムそのものの解体を意味した。
だからこそ、ヒトラーの死か、国家の破壊か、外からの強制終了しか選択肢がなかった

猿トル
猿トル

「総力戦」っていうのは、戦争が“社会の目的”になることなんだ。
そうなっちゃうと、勝つためじゃなく、戦争をやめないために戦ってる状態になりかねない。

“誰が戦争を終わらせるのか”──体制構造の差異

戦争は自然に終わるものではない。
終わらせるには、誰かが「ここでやめる」と決断し、実行する必要がある。
ではなぜ、第一次世界大戦では講和が可能だったのに、第二次世界大戦では徹底抗戦が続いたのか?
その分かれ目は、体制の構造、特に「権限の集中度」と「政治の流動性」にあった。

第一次世界大戦:政体崩壊による“講和可能な新体制”の出現

  • ヴィルヘルム2世の退位により帝政は崩壊し、社会民主党主導の共和制政権が樹立。
  • 軍は敗北を認め、講和を「政治に丸投げ」。
  • 新政府は、旧体制の責任を一部免責された形で、連合国と講和交渉に入った。

「戦争を始めた体制」と「終わらせた体制」が違ったため、交渉が成立した。

第二次世界大戦:独裁体制の“決断不能構造”

  • ヒトラーは権限を一極集中させ、戦争の終結を命じる存在が彼以外にいなかった。
  • 逆に言えば、ヒトラーが戦争継続を望む限り、誰も止められなかった。
  • 反ヒトラー派(例:シュタウフェンベルク暗殺未遂)も、体制転覆には至らなかった。

トップの意思=国家の進路という構造では、「終戦」のボタンが国家に内在しない

要素第一次大戦ドイツ第二次大戦ドイツ
政治体制の変化帝政崩壊 → 民主政府独裁体制の固定
終戦の意思決定者新政府(社会民主党)ヒトラー個人
軍の裁量政治に講和を委任命令遵守を最優先(反逆は死)
講和交渉の“窓口”新体制としての正統性あり戦争責任の象徴として正統性なし

「終戦できる体制」と「終戦不可能な体制」

第一次大戦の終結は、体制交代という政治的ショックが戦争継続の回路を断ち切った。
一方、第二次大戦は一枚岩の独裁体制であったがゆえに、誰も意思決定を共有できなかった
つまり、体制の柔軟性の有無が「やめられる国」と「やめられない国」の分かれ目となった。

猿トル
猿トル

“戦争をやめる人”って、意外といないんだよね。
多くの国は「始める仕組み」は用意してるのに、
「やめる仕組み」はつくってなかったりするんだ。

“負けの納得度”──戦争体験と国民心理の落差

戦争が終わったあと、国民はそれをどう受け止めるか。
その「納得のされ方」は、後の社会の安定や、戦争責任の所在にも深く関わる。
ここでは、第一次世界大戦と第二次世界大戦における「敗戦体験の差」を、国民の目線から比較してみる。

第一次世界大戦:負けた実感が乏しかった敗戦

  • ドイツの領土は戦場にならず、本土に連合軍が攻め込んでくることもなかった。
  • 国民の生活は厳しかったが、「直接的に殺される」という恐怖は限定的だった。
  • 急に政体が崩壊し、新政府が講和を結び、突然「敗戦」が告げられた。

→ 「本当に負けたのか?」という実感が持ちにくかった。
→ だからこそ、「戦場では負けていなかった」「裏切り者がいた」という神話が生まれた

第二次世界大戦:否応なく体感した敗戦

  • 連日の空襲で都市は焦土と化し、多くの市民が命を落とした。
  • 東からはソ連軍、西からは米英軍が進軍し、国土は完全に戦場となった。
  • 配給も停止、鉄道も止まり、文字通り「生活が崩壊」した。

→ 「これ以上続けたら全員が死ぬ」という体感としての敗北が、徹底抗戦の終わりを強制した。
→ 終戦はショックではあったが、もはや否定できない現実だった。

敗戦の“納得度”が社会の方向性を決めた

  • 第一次世界大戦では、敗戦の実感がなかったために、敗戦責任がうやむやになり、反ユダヤ主義・ナショナリズムの肥大へとつながった。
  • 第二次世界大戦では、あまりに破滅的な敗北体験により、「あれは間違っていた」という共通認識が形成されやすかった。

「負けをどう体験するか」は、再戦か再建かを分ける

国家がどう負けるか以上に、国民がどう負けを受け止めるかが、次の社会を決定する。
講和による終戦は戦争を短期的には終わらせたが、“負けた理由を探し続ける社会”を残した
一方、徹底抗戦による敗戦は、痛みと引き換えに、納得と再出発の余地を生んだ

終わり方が未来を決める──敗戦構造の比較と教訓

歴史において、戦争の「始まり」が注目されることは多い。
だが実際には、「どのように終わるか」が、次の時代の政治・社会・国民意識を大きく左右する。
第一次世界大戦と第二次世界大戦の終わり方の違いは、その後の世界のあり方を決定づけた。

講和は短期的に“合理的”、だが長期的には“火種”を残した

  • 第一次世界大戦の講和は、国家としては早期に戦争を終わらせ、破壊を最小限に抑える選択だった。
  • しかし、その講和が曖昧で、敗戦の納得を得られないまま、国民の感情と乖離した。
  • その結果、「背後の一撃」神話が生まれ、ナチスの台頭という次の戦争の温床になった。

徹底抗戦は破壊をもたらしたが、責任を明確にした

  • 第二次世界大戦では、都市は焦土と化し、多くの命が失われた。
  • だがその破滅的な終わりが、敗北を「否応なく受け入れる」体験となり、戦後復興と戦争責任の明確化に繋がった。
  • 結果として、西ドイツでは民主化と経済復興が、東ドイツでは社会主義体制がすぐに敷かれるという、次の秩序が具体的に始まった

「終戦」の構造が、次の社会を決める

観点第一次大戦第二次大戦
終戦手段講和・休戦協定無条件降伏
政治体制の変化政変による政権交代体制崩壊と占領統治
国民の敗戦実感曖昧、戦場は国外明確、本土決戦・空襲
負けの納得度低い=責任転嫁高い=責任受容
戦後への影響ナチズム、再戦へ戦後秩序の構築、再建と反省

「うまく負けること」が未来をつくる

うまく負けるとは、ただ白旗を上げることではない。
敗北を社会として受け入れ、責任の所在を明確にし、次の秩序をつくることだ。
それには、終わらせ方の設計=「どうやって納得を共有するか」が必要になる。

それを怠ると、戦争は“終わったこと”にはならず、心の中で続き、形を変えて蘇る

猿トル
猿トル

「戦争が終わった」って、政府が言っただけじゃダメなんだ。
大事なのは、“誰が終わらせたか”じゃなくて、“みんなが終わったと思えたか”ってこと。
じゃないとさ──戦争はまた、別の名前で戻ってくるんだよ。


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