言葉は、なぜ崩れるのか──
この問いをめぐって、私たちは音と文字のズレ、文法の揺れ、社会と権力の関係、そしてマイノリティの声にまで目を向けてきた。
それは単なる“言語の変化”ではなく、
「人間が社会をどうつくり、どう変わってきたか」の記録でもある。
この最終回では、これまでの議論を振り返りながら、言語の崩れがもたらす創造性と、未来の言葉のあり方について考えていく。
言葉は“壊れていく”のではなく、“変わり続けている”
言語が「崩れる」という表現には、どこかネガティブな響きがある。
乱れている、劣化している、退化している──そんなニュアンスだ。
しかし私たちは、これまでの章で見てきたはずだ。
「崩れる」と呼ばれてきた現象の多くは、むしろ自然な変化の連鎖であり、時に創造的な進化ですらあるということを。
音と文字のズレも、人間の柔軟さの証
第1回・第2回では、発音とスペルのズレや綴りの保守性に注目した。
英語をはじめ、多くの言語で「読みと書き」が一致しないのは、言語の運用が生きた人間の口と耳に委ねられているからだ。
印刷技術や教育制度が表記を固定しても、日々の会話のなかで発音はどんどん変わっていく。
そこには、ルールよりも使いやすさや効率、感情表現の欲求が優先されている。
つまりズレは“劣化”ではなく、生活のリズムに寄り添った変化でもある。
文法の不規則性も、社会の痕跡
第3回では、不規則動詞や例外的な表現が、単なる“例外”ではなく、過去の言語接触や階層的な影響の痕跡だということを見た。
ルールから外れて見えるものほど、かえってその言語がどんな道を歩んできたかを物語る。
不規則性=歴史の化石──それは言葉の不完全さではなく、人間らしさそのものの証拠なのかもしれない。
言葉の“崩れ”が文化を生み出す
言葉が崩れていくとき、それはただの“誤用”や“退化”では終わらない。
むしろそこから、新しい表現が芽を出し、新しい意味が編み直されていく。
変化は不完全で曖昧だが、その曖昧さこそが、言語を通じた文化の広がりを生み出している。
俗語、略語、ネットスラング──逸脱の中の創造
「ヤバい」や「エモい」のような曖昧な形容詞、「了解です」「草」などの新語、あるいは句読点や漢字の“わざと間違える”使い方──
それらは、正則文法から見れば逸脱でしかない。
しかし、こうした変化はコミュニティの中で意味を持ち、定着し、洗練されていく。
崩れた言葉は、ある種の“遊び”であり“反抗”でもある。
そしてその“ズレ”にこそ、文化の香りが宿る。
方言やマイナー言語の“再価値化”
シリーズ後半で見たように、かつて標準語に“抑圧された”方言や少数言語が、いまふたたび、地域性や個人性を表現する手段として評価されはじめている。
- 方言女子という言葉の流行
- アーティストやタレントが地元の言葉で発信する動き
- アイヌや琉球を舞台とした作品のヒット
言葉の“崩れ”とは、中心から見れば逸脱でも、周縁から見れば再生である。
崩れる言葉、変わる社会──“正しさ”の再定義
かつて言葉の「正しさ」は、学校教育や辞書、放送などによって定められ、逸脱は「間違い」として矯正されるべきものとされていた。
しかし現代では、その前提が静かに揺らぎつつある。
言葉の使われ方も、社会の在り方も、“一つの正しさ”では括れない時代になっているのだ。
規範より共感へ
SNSや動画配信、チャットアプリなどの普及により、言語は「正しく伝えるもの」から、「共感を生むもの」へと重心を移している。
・誤字すら“味”として受け入れられる柔らかさ
・標準語と方言、話し言葉と書き言葉が入り混じる自由さ
・絵文字やGIF、略語など非言語的手段の拡張
「正しいかどうか」ではなく、「伝わるかどうか」「温度があるかどうか」が問われている。
辞書にのるのは“最後”
「辞書に載っていないから間違い」という言い方があるが、実際には逆だ。辞書に載るのは、社会の変化が“ほぼ終わったあと”だ。
- 「ググる」
- 「KY(空気が読めない)」
- 「推し活」
こうした言葉は、まず人々の間で自然に生まれ、何年も使われ続けたのちに「記録」として辞書に載る。
つまり、「言葉の正しさ」は上から決まるものではなく、使われ続けた事実そのものが“正しさを作る”のである。
言葉は、変わるからこそ生きている
言語は、固定された道具ではない。
むしろそれは、人間の営みそのものに寄り添い、共に揺れ動くものである。
私たちが「崩れ」と呼んできた現象の多くは、時代の変化に対する柔軟な対応であり、多様な社会の中での“表現の余地”を広げる働きをしている。
「正しい言葉」を守ることがすべてではない。
むしろ、正しさの枠組みを問うことそのものが、言語にとって健全な営みなのだ。
変化を受け入れるということ
言葉は、社会とともに変わる。
そして、社会が変わるからこそ、言葉もまた変わらざるを得ない。
教育、テクノロジー、政治、文化、ジェンダー、アイデンティティ──
あらゆる領域で“新しい語り”が求められる今、私たちは、言葉に変化を許容する知性を持てるかが問われている。
変化は乱れではない。
それは、表現の回路を開き直す契機でもある。

誤用が広まるのが不快? でもそれって未来の標準語かも?
「最近の若い者は言葉が乱れている」って文句言ってるうちに、乱れたほうが正しい言葉になかもしれないよ。
あとがき
このシリーズを書き始めたきっかけは、日常の何気ない会話だった。
エストニア出身の妻は、母語のエストニア語に加え、フィンランド語(同じフィン・ウゴル語族)、英語、日本語をネイティブレベルで話し、さらにロシア語とドイツ語も日常会話程度なら難なくこなす。
ある日、「日本語は難しかった?」と尋ねたところ、
予想に反して、「簡単だった」という答えが返ってきた。
「日本語は難しい」という普遍的な(?)認識を持っていた私には意外な答えだった。
理由を聞くと、当時大学で日本文学を研究していた彼女は説明した。
「日本語は明治期に政府によって再定義された言語で文法がとても規則的」と。
なるほど
言われてみれば、確かに文語体からの脱却、標準語の制定、教育を通じた全国的な言語統一といった動きは、緩やかに学問が体系化された他国に比べて非常に計画的で、意図の強い再言語化だった。
彼女のこの一言が、本シリーズを書くきっかけとなった。



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