戦争には最低限のルールが必要だと人は考えてきた。
その象徴が「宣戦布告」である。外交が尽きたことを示し、相手に戦うか降伏するかの選択を与える――そう語られてきた。だが近代戦の多くは奇襲で始まり、布告は無視されることも珍しくなかった。1907年のハーグ条約が布告を義務づけても、現実は軍事的合理性が優先されたのである。
では、宣戦布告とは本当に「戦争の最低限の道義」だったのか。それとも、戦争を正当化するための形式的な演出にすぎなかったのか。本稿では歴史的事例をたどりながら、その二面性を探る。
戦争と道義のはざま
戦争は暴力と破壊の行為である。それにもかかわらず、人類は古代から「戦争にも最低限の道義が必要だ」と考えてきた。なぜなら、戦争が無制限の殺し合いになれば社会秩序そのものが崩壊し、勝者にとっても統治の正統性を失うからである。
中世ヨーロッパで発展した「正しい戦争(just war)」論では、戦争が道義的に許される条件として三つの要素が語られた。
第一に正当な理由(自衛や侵略の阻止)
第二に正当な権威(国家や君主としての権限)
第三に公然性(隠れた暴力ではなく、正面から行うこと)
ここでいう公然性こそ、後に「宣戦布告」という制度と結びつくことになる。
宣戦布告は、戦争を国家間の行為として形式化する。外交交渉の終わりを告げ、相手に降伏か抵抗かの選択を突きつけ、第三者に対しても「自国が戦う理由」を明らかにする。
この手続きを踏むことで、戦争は単なる無法な襲撃ではなく「秩序ある紛争解決」として正統性を装うことができたのである。
つまり、宣戦布告は戦争そのものを道義的に正しいものにするわけではない。
だが、「最低限のルールがある」という見かけを保つ役割を担ってきた。
戦争を『制度化された暴力』として位置づけるための、文明国的な儀礼だったのだ。
近代戦における奇襲の効果
近代に入ると、戦争の始まり方は大きく変わった。
鉄道による兵力の高速動員、電信による即時通信、蒸気艦や航空機の登場によって、開戦直後の一撃が戦局全体を左右する時代となったからである。
この状況では、相手に準備時間を与えることは致命的な不利につながる。
宣戦布告を行い、相手が戦闘態勢を整えるのを待ってから攻撃するのは、軍事的には愚策に等しかった。
結果として、近代戦はしばしば奇襲をもって始まることが常態化した。
日露戦争の旅順港攻撃(1904年)、ナチス・ドイツのポーランド侵攻(1939年)、独ソ戦のバルバロッサ作戦(1941年)、そして日本の真珠湾攻撃(1941年)。いずれも宣戦布告や最後通牒より先に軍事行動が開始された事例である。
こうした奇襲は、単に戦術上の利得を超えて、戦争の成否を決める戦略的要因となった。
初撃で敵艦隊や航空基地を壊滅できれば、以後の戦争を有利に進められる。
逆に出遅れれば、総力戦の消耗に引きずり込まれ、敗北のリスクが跳ね上がる。
宣戦布告は「戦争を正義づける道義」ではなく「勝敗を危うくする足かせ」へと変質したのだ。
それでも各国は、道義と合理性の狭間で揺れ動いた。表向きは布告を尊重しつつ、実際には「布告直前の攻撃」や「通告の遅延」といった形で奇襲を正当化する抜け道を探した。
そこには、軍事的利益と国際的正統性を両立させようとする苦しい計算が透けて見える。
国際法と宣戦布告の理想
近代戦が奇襲によって始まる現実を前に、国際社会は逆に「戦争に最低限の手続きを課す」方向へと動いた。その象徴が、1907年オランダのハーグで採択された「開戦に関する条約(ハーグ開戦条約)」である。
この条約は、戦争の開始に際して「宣戦布告」または「最後通牒を伴う通告」を行うことを締約国に義務づけた。第1条にはこう明記されている。
締約国は理由を付したる開戦宣言の形式、または条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する、明瞭かつ事前の通告なくして、其の相互間に戦争(hostility)を開始すべからざることを承認す。
ここには、「戦争にも秩序と公開性を与えたい」という国際社会の理想が反映されていた。
宣戦布告は単なる儀礼ではなく、戦争を国際的に正当化するための最低限の道義として位置づけられたのである。
だが、現実は違った。第一次世界大戦では、確かに各国が布告を乱発した。ドイツがロシアとフランスに布告し、イギリスがドイツに布告し……数日のうちにヨーロッパ全域が戦火に包まれた。
だが、それは条約遵守というより、むしろ同盟関係の自動発動を「布告」という形式で追認しただけだった。
さらに第二次世界大戦では、条約はほとんど形骸化する。
ドイツのポーランド侵攻、ソ連のフィンランド侵攻、日本の真珠湾攻撃――いずれも宣戦布告なし、あるいは布告の前後関係が逆転した奇襲である。
つまり、国際法が理想とした「宣戦布告による戦争開始の秩序」は、紙の上では義務化されながら、戦場ではしばしば無視された。
宣戦布告は「最低限の道義」であると同時に、「守られない道義」でもあったのだ。
コラム:文明国を目指した参加と、減らなかった戦争
明治期の日本は、ハーグ平和会議に積極的に参加した。国際法の枠組みに加わることは、近代国家として列強と肩を並べるための重要なステップだった。会議の場にいること自体が「文明国の仲間入り」を示すものと受け止められていたのである。
しかし、条約がめざしたのは「戦争をなくす仕組み」ではなく、「戦争を一定のルールのもとで行う枠組み」だった。禁止兵器や宣戦布告の義務づけといった理想は掲げられたが、第一次世界大戦で早くも破られ、第二次世界大戦では多くの国が布告を経ずに軍事行動を開始した。
日本もまた、この国際的な潮流の中にあった。条約に署名し、国際法を尊重する姿勢を見せながらも、他の列強と同様に、実際の行動では「事変」や「特別行動」といった名目を用い、宣戦布告を避けるケースがあった。
結局、ハーグ条約が示したのは「戦争を減らす努力」ではなく、「戦争を整える努力」であった。その限界は、日本に限らず、条約に署名した列強すべてが直面した現実だったのである。
アメリカの「戦争と呼ばない戦争」
アメリカ合衆国憲法は「議会が戦争を宣言する権限を持つ」と定めている。つまり本来は、戦争を始めるには正式な「宣戦布告」が必要である。しかし、アメリカの歴史を振り返ると、議会が宣戦布告を行ったのはわずか数回にすぎない。
実際に布告があったのは、1812年の米英戦争、1846年の米墨戦争、1898年の米西戦争、そして第一次・第二次世界大戦の計五回である。それ以外の戦争――朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争など――これらはいずれも「軍事行動」「警察行動」「特別措置」といった名目で開始され、宣戦布告は出されなかった。
その理由は軍事的奇襲を狙ったわけではない。
アメリカの軍事力であれば、奇襲をしなくとも戦えるからだ。
むしろ本質は政治的合理性にある。
議会で「戦争」を宣言するより、大統領が「軍事行動」として始めた方が手続きは速く、国内外の批判もかわしやすい。戦後に責任を問われた際も、「正式な戦争ではなかった」と説明できる余地が残る。
さらに、宣戦布告を避けることは国際世論を意識した選択でもあった。
アメリカが掲げる大義は常に「自由の防衛」「平和の維持」であり、露骨な「侵略戦争」のイメージを避ける必要があった。
布告を出せば「戦争の開始」を宣言することになるが、それを避けて「限定的な軍事行動」と呼ぶことで、国際社会や同盟国の支持を得やすくなるのである。
このため、アメリカの戦争には一つのパターンがある。「自ら攻めるとき」は布告せず、「攻撃されたとき」だけ布告する。第一次世界大戦は無制限潜水艦作戦によって、第二次世界大戦は真珠湾攻撃によって国民が直接脅かされたからこそ、議会が布告を行った。逆に言えば、それ以外の多くの戦争は「宣戦布告なき戦争」として遂行されたのである。
アメリカの事例は、宣戦布告が必ずしも軍事的合理性ではなく、国内外へのメッセージ操作の一環であることを如実に示している。
宣戦布告の合理性
宣戦布告は単なる形式に見えるが、国家にとっては重要な意味を持った。ただしその効果は一様ではなく、軍事と政治という二つの観点から「得」にも「損」にもなり得た。
軍事的観点宣戦布告は奇襲を妨げる
軍事合理性から見れば、布告は敵に準備の時間を与えるため不利になりやすい。近代戦では開戦直後の一撃が戦局を左右することが多く、奇襲は決定的な価値を持っていた。布告をしてから攻撃すれば、初撃の効果は薄れ、戦略的な優位を失いかねない。
ただし、布告の有無で軍事的に大きな差が出ない場合もある。第一次世界大戦のドイツがその典型である。ドイツはロシアとフランスに宣戦布告したが、その時点で両国はすでに動員を進めており、不意打ちの余地は限られていた。
鉄道動員を伴う大規模作戦は秘匿が難しく、布告を回避しても軍事的な奇襲効果はほとんど得られなかったのである。
政治的観点:宣戦布告は物語を強調する
一方、布告は政治的には強い効果を持った。布告によって「誰が戦争を始めたか」がはっきりと記録に残り、戦後の国際的評価を左右する。
ドイツの布告はまさにその例だった。侵攻自体が侵略と見なされるのは避けられなかったが、布告によって「ドイツが自ら攻撃を宣言した」という物語が強調された。
結果として、連合国はこれを「侵略の自白」として利用し、敗戦後にはヴェルサイユ条約で厳しい賠償や責任を押しつける根拠とした。
逆に、布告をうまく使えば「正義の演出」が可能となる。
第一次世界大戦でイギリスは、ドイツのベルギー侵犯に対して布告を行い、「小国を守る正義の戦争」という物語を確立した。
第二次世界大戦のアメリカも、真珠湾攻撃を受けて布告することで「自衛の戦争」という明快な構図を国内外に提示した。
結論:布告は「戦後の物語」を左右する
宣戦布告の得失を決めるのは、戦場そのものではなく戦後秩序の舞台だった。
軍事的には布告は基本的に不利であり、奇襲を狙うなら回避されやすい。 政治的には:布告は「勝者」なら正義の証拠に、「敗者」なら責任追及の証拠に変わる。
言い換えれば、宣戦布告は戦局を変える武器ではなく、戦後の歴史をどう語られるかを左右する装置であった。
「最低限の道義」か「正義の演出」か
戦争において宣戦布告は長らく「最低限の道義」として語られてきた。戦いの前に相手へ通告を行い、第三者に理由を示すことは、無秩序な殺し合いを国家間の行為として整える意味を持った。1907年のハーグ条約が布告を義務化したのも、その発想の延長にある。
しかし近代戦の現実は、布告を無視して奇襲に走る方向へ傾いた。布告は軍事的には足かせとなり、政治的にも「敗者」にとっては責任追及の材料となったからである。それでも「勝者」にとっては正義を演出する装置となり得た。この二面性こそ、宣戦布告の宿命だった。
結局のところ、宣戦布告は戦争を道義的に清めるものではなかった。
いつの時代においても戦争そのものは残酷であり、布告の有無でその本質が変わるわけではない。
ただし布告があれば「手続きを踏んだ戦争」という体裁を整え、戦後に「正しい戦争」として記憶される余地を残す。なければ「だまし討ち」として批判されやすい。
つまり宣戦布告とは、道義の本質ではなく、道義を演出するための形式にすぎない。
それは「最低限の戦争道義」と呼ばれつつも、実態としては戦争を正当化するための物語装置だったのである。
まとめ
私はそもそも戦争は理性の敗北であると考える。
それでもその中に、なお人間の理性を保とうとする努力があるなら、そこには道義が必要となる。
しかし、それが「宣戦布告」かと問われれば疑わしい。布告があっても市民は爆撃され、捕虜は虐待され、侵略は行われてきた。戦争の残酷さは、布告の有無によって和らぐものではない。
むしろ宣戦布告とは、戦争を「整ったもの」に見せかけるための演出に近い。
勝者にとっては正義の証拠となり、敗者にとっては罪の証拠となる。
その機能は、戦場ではなく戦後の物語にこそあった。
戦争という行為そのものが、すでに人間の理性の敗北である。
だからこそ宣戦布告を「最低限の道義」とは考えない。
もし道義があるとすれば、それは戦争を選ばないこと、あるいは、戦わざるを得ない状況の中でも人間の理性を手放さないこと――そのどちらかだろう。


