農業と家畜という初期条件が文明の格差をつくったのは確かだ。だが同じユーラシア大陸に属しながら、なぜ近代においてヨーロッパが産業革命を先行させ、中国や日本は後れを取ったのか。この問いは、単なる資源や地理の差だけでは説明できない。
ヨーロッパは統一されにくい地形の中で国家間競争にさらされ、常に合理的な選択を迫られた。一方、中国は大帝国としての安定を優先し、日本も戦国から江戸へと進む中で革新の速度に大きな差が生まれた。
本稿では、『銃・病原菌・鉄』の視点を踏まえつつ、ヨーロッパとアジアの分岐を生んだ「競争」と「体制」の力学を考えてみたい。
ヨーロッパの分裂と競争
ヨーロッパは地理的に見て、統一がきわめて難しい地域だった。アルプス山脈やピレネー山脈などの山岳地帯、複雑な半島や河川が各地を隔て、広大な平原の中国とは対照的である。その結果、ユーラシア西端のこの地域は、小国が林立し、互いに競い合うことを運命づけられていた。
この分裂は不安定さを生み出すと同時に、強力な競争圧力となった。隣国に遅れを取れば侵略され、征服される。だからこそ各国は生き残るために、軍事技術の革新や経済制度の改良に積極的にならざるを得なかった。火薬兵器の改良、大砲や銃の普及、海洋航海技術の発展、金融の制度化──その多くは、隣国との競争に勝つための合理的な選択だったのである。
この「競争の連鎖」がヨーロッパを動かした。中国のように一度の統一で全土を支配する皇帝はいなかった。むしろ、統一を阻む地形と歴史が、分裂を常態とさせた。そしてその分裂が、文明を停滞させるどころか、むしろ産業革命への土壌となったのだ。
私はここに、人類史の逆説を感じる。安定した統一国家が文明を繁栄に導くと考えがちだが、ヨーロッパの歴史はその逆を示している。分裂と競争こそが、近代世界を形づくるエネルギーを生み出したのである。
ローマ帝国はなぜヨーロッパを統一できたのか
ヨーロッパは山岳と半島に分断され、統一が難しい地域だと言われる。では、なぜローマ帝国はそのヨーロッパを一時的に統一できたのだろうか。
鍵となったのは、ローマが抑えた空間が「ヨーロッパ全体」ではなく、地中海世界だった点である。地中海は交通の要衝であり、補給と移動が容易な「内海」だった。ローマはこの海を基盤に勢力を拡大し、沿岸部の都市や地域を効率的に結びつけることができた。
さらにローマは、軍事力とインフラに強みを持っていた。職業軍人制度による常備軍、そして広大な道路網の整備が、遠征と統治を可能にした。属州制度と市民権の拡大は、異なる民族を包摂する柔軟さを示している。
ただし、ローマの支配はあくまで地中海を中心とした一体性に依存していた。ゲルマン人の居住地や東欧の森林地帯までは完全には統治できなかったし、ブリテン島やガリアの支配も常に不安定さを抱えていた。
つまり、ローマの統一はヨーロッパの「分裂の宿命」を克服したのではなく、地中海という特殊な条件が生んだ一時的な例外だったのである。そして帝国が崩壊すると、ヨーロッパは再び小国分立の状態に戻り、その競争こそが後に産業革命を生み出す原動力となった。
中国の統一と体制維持
ヨーロッパが分裂と競争を宿命づけられたのに対し、中国はその逆を歩んだ。地理的条件が広大な統一帝国を生み出す素地を与えていたのである。
黄河と長江という二大河川は、内陸の交通路であり、農業の大動脈だった。広大な平野は大規模な農耕を可能にし、人口を集中させた。加えて外縁部には山脈や砂漠、海があり、外敵を遠ざける天然の壁として機能した。これらの条件は、分裂よりも統一を後押しした。
実際、中国の歴史は「統一王朝の興亡」として繰り返される。秦、漢、唐、明、清──王朝が滅んでも、やがて次の統一王朝が現れる。長期にわたり国家の一体性が保たれた背景には、地理的条件と同時に、中央集権的な官僚制の発達があった。科挙による官僚登用や、租税・兵役を管理する制度が、広大な領域を統治する力を持っていたのである。
しかし、この安定は同時に革新の抑制でもあった。外敵の脅威が相対的に少なく、統一が当たり前の状況では、軍事技術や経済制度を飛躍的に進化させるインセンティブが弱い。むしろ重要なのは「秩序を乱さないこと」であり、新しい制度や技術は既存の体制を脅かすものとして抑え込まれやすかった。
中国に潜在的な技術力がなかったわけではない。火薬、羅針盤、印刷術といった発明は中国から世界に広がった。しかし、それらが社会全体を変革する形で普及することは少なかった。革新が芽生えても、それを帝国規模で波及させる仕組みは存在しなかったのである。
私はここに、安定と進化のジレンマを感じる。安定した社会は人々の生活を守るが、同時に変革を必要としない。分裂したヨーロッパが競争に駆り立てられたのとは対照的に、中国は「統一と安定」という強みが、近代においては逆に足かせとなったのだ。
日本では?
ヨーロッパと中国の対比を考えるとき、日本の歴史もまた興味深い事例を示している。島国という条件を持ちながら、日本は戦国期と江戸期でまったく異なる進化の速度を経験したからである。
戦国時代、日本列島は大小の大名に分断され、各地で絶えず戦いが繰り広げられていた。
ここではヨーロッパ同様、競争が技術革新を促した。鉄砲はその最たる例である。種子島に伝来した火器は瞬く間に大量生産され、戦術革新へとつながった。
さらに経済面でも、市場経済の発展や貨幣流通の拡大、商人層の台頭が進んだ。分裂と競争が、社会全体をダイナミックに動かしたのである。
ところが江戸時代に入ると、状況は一変する。徳川幕府の長期安定は戦乱を終わらせ、人々の生活に平和をもたらした。しかし外敵の脅威がほとんどなく、統一体制が維持されると、革新の必要性は急速に失われていった。
鉄砲をはじめとした武器開発や造船技術、さらには自由経済や職業の流動性に至るまで「秩序を乱すモノ」として抑制されていった。
鉄砲は生産数を大幅に減らされ、幕府の監視下に置かれた。
大型の造船は「鎖国体制」を支えるために禁止され、海外交易を担う商人勢力の活動も制限された。
こうして、戦国期に芽生えた革新の流れは意図的に抑え込まれ、社会は安定と停滞の方向へと傾いていったのである。
私はこの変化を、まさに「環境が進化のスピードを決める」例だと考える。競争と分裂が続けば、為政者は常に合理的選択を迫られ、技術や制度は前に進む。
逆に、安定が続けば、社会は既存の秩序を守ることを優先し、進化は緩やかになる。
このことは、環境と体制が文明の進路を大きく左右することを改めて示している。人種や民族の能力や資質ではなく、外部環境と競争構造が歴史の方向を決める。
日本史の経験は、その事実を如実に物語っている。
競争故に生まれた産業革命
ヨーロッパの分裂と競争は、単なる戦乱の連続に終わらなかった。前章で見たように、各国が生き残りのために合理的な選択を迫られ続けた結果、知識や制度が社会全体に広がる仕組みが育っていった。
この仕組みこそが、近代を切り開いた決定的な力となる。
まず科学革命においては、観測や実験の成果が国境を越えて伝わり、ある国で抑圧された思想が別の国で息を吹き返した。分裂していたからこそ、知識が閉ざされることなく拡散していったのである。
次に金融制度。戦争の継続は膨大な資金を必要とし、各国は国債や銀行を発達させた。とりわけオランダやイギリスでは、国家と金融市場の結びつきが強まり、長期的な資金調達が可能になった。これは軍事だけでなく、交易や産業の発展をも支える力となった。
こうした知識と制度の積み重ねが、18世紀の産業革命へと結実した。蒸気機関や紡績機といった革新は、単なる発明者の才覚から生まれたのではない。分裂と競争が生んだ仕組みが、それを社会全体に受け入れ、拡大させる環境を整えていたからこそ、産業革命はヨーロッパで花開いたのだ。
私はここに、歴史の皮肉な真実を見た気がする。
分裂は不安定をもたらすはずなのに、その不安定さこそが制度と技術を成熟させ、最終的には世界を変える原動力となった。長期安定を誇った明や清王朝、徳川幕府が停滞へと向かった一方で、分裂に苦しんだヨーロッパが近代の扉を開いたのは、皮肉でありながら必然でもあった。

産業革命の始まりはイギリスとされるけど、実はオランダやフランスなど周辺国の制度や知識も大きな土台になっていたんだ。ヨーロッパ全体の競争が、ひとつの国に火をつけたとも言えるね。



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