米と小麦が世界を分けた──農業と民主主義の関係

比較人類学・文明論
この記事は約11分で読めます。

産業革命はなぜヨーロッパで起こったのか。

なぜ東アジアでは、高度な文明がありながら自発的な民主主義が育ちにくかったのか。

この問いに対して私は、ジャレド・ダイアモンドの地理的構造に注目した説に長らく共感してきた。

だが最近、もっと素朴な視点──主食の違いからこの問いを見直してみたくなった。

米と小麦。

ただの食べ物の違いに見えるが、実はそこには労働のかたちと社会のかたちを分ける分岐点があるのではないか。

そんな仮説から、ひとつの物語を追ってみようと思う。

米と小麦の“労働構造”が社会を分けた

穀物は、ただのエネルギー源ではない。

それは人間の行動様式を縛り、共同体のかたちを決め、やがて社会全体の仕組みに影を落とす。

まず米──稲作は、水を制する者が豊かになる農業だ。

だがその「水を制する」作業は、個人では不可能である。

田に水を張り、均一に行き渡らせ、溢れれば調整し、渇けば共同で補う。

つまり、稲作は集団での協調と持続的な労働を前提としたシステムなのだ。

この特性は、アジアの高密度な農村社会を形づくる。

中国の黄河流域、日本の中山間部、東南アジアのデルタ地帯──

どこでも人々は、水利と収穫をめぐって村落ごとに密接な関係を築き、長期にわたって土地と関係を結ぶことを求められる。

一方で小麦──畑作は、相対的に個別化された農業である。

灌漑の必要性は低く、天水(自然の降水)を利用し、比較的広い土地を少人数で管理できる。

作業は一時的に集中するものの、田植えや水の維持のような“日々の共同作業”は少ない。

この差が何を生むか。

稲作社会は、人口を凝縮させる。限られた耕地に多くの労働力を投下することで、高収量を支える。

結果として、村落ごとに密集した人口が固定され、土地に根ざした共同体意識が生まれる。

一方、小麦社会では、土地は広く、人は分散して暮らす。

小規模な単位での農業が可能であるため、労働は家族単位でも足りる。

ここでは「皆で協調して管理する」よりも、「各々が土地を管理する」という発想が優先される。

この違いは、単なる農業スタイルの違いにとどまらない。

やがて、稲作社会では中央集権的な官僚制が発展しやすく、小麦社会では分権的な封建制や地方自治の伝統が生まれていく。

つまり、米と小麦という「穀物の選択」が、

国家のかたちすら選び直してしまう──

それがこの仮説の出発点である。

コラム:米と小麦──“効率”のかたちが社会を変える

「米は手がかかる」──それは印象ではなく、数字が裏づけている。

NHK for School の教材によると、10アール(=0.1ヘクタール)あたりの平均収穫量と労働時間は以下の通り:

  • :収穫量 537kg / 労働時間 約35時間
  • 小麦:収穫量 376kg / 労働時間 約7時間

この数値を単純に時間あたりの収量に換算してみると、

  • 米は 約15.3kg/1時間
  • 小麦は 約53.7kg/1時間

つまり──
米は土地効率(収穫量/面積)では優れているが、
小麦は労働効率(収穫量/労働力)で圧倒的に高いのだ。

この違いは、農業の「あり方」だけでなく、
社会の構造そのものを分ける要因となった。

米は人手を必要とし、灌漑や田植え・水の管理といった作業が多く、
自然と人びとは集団として働くことを余儀なくされる。
一方、小麦は限られた労働力でも効率的に回せるため、分業・機械化・土地拡張といった方向に向かいやすい。

ここに見られるのは、単なる農作業の違いではない。
「労働の構造」が、そのまま社会の構造を決定するという、シンプルで強烈な地理的バイアスである。

そしてこのバイアスは、国家のあり方、都市化、さらには制度の形──
たとえば中央集権か、地方自治か、という問いにまでつながっていく。

※データ出典:NHK for School「米と小麦の育て方のちがい

中央集権か、分権か──制度の根は“穀物”にある

国家の制度は、理念だけで設計されたものではない。

それは多くの場合、人びとの働き方や暮らし方、そして生活を支える農業構造に根を持っている。

稲作は、収穫を得るために水を引き、田を均し、苗を植え、実るまで管理を続けなければならない。

これは単なる作業ではなく、人と人との連携を前提としたプロジェクトだ。

水の使用や田植えの時期をめぐるトラブルを防ぐためには、共通ルールとその調整役が欠かせない。

ここで必要となるのが、「上から」全体を調整する仕組み──つまり中央集権的な統治である。

実際、古代中国の黄河文明や揚子江流域では、巨大な灌漑システムとそれを管理する官僚機構が早くから発展した。

土地の所有や税制、人口の把握までもが精密に設計され、それを統制する国家が生まれた。

後にそれが「王朝国家」や「官僚制国家」として、アジア全体に広がっていく。

一方、小麦を中心とする畑作地帯では事情が異なる。

個人や家族単位での耕作が可能で、田の水を共同管理するような負担も少ない。

そのため、国家がすべてを掌握する必要がない。

この地では、土地を持つ貴族や領主がそれぞれの地域を管理し、国家はその上に“ゆるやかに”乗っているだけ、という構造が成立する。

これはまさに封建制であり、その先にあるのは地方分権的な社会である。

この違いがのちに、政治思想の差となって現れる。

たとえばヨーロッパの「契約に基づく国家」「市民による自治」は、分権的な農業社会における慣習の延長線上にある。

対して、東アジアに見られる「徳に基づく統治」や「上意下達の秩序感」は、稲作社会の調和と統制の必要性から生まれた合理でもある。

穀物の違いは、イデオロギーをも規定する。

制度は頭でつくられるのではなく、田畑の構造からにじみ出てくるものなのかもしれない。

猿トル
猿トル

「灌漑が中央集権を生む」──このテーマ、実はだいぶ前から論じられてた。

20世紀の歴史学者カール・ウィットフォーゲルは、大河の水を制御するために権力が集中せざるをえなかったとする説を打ち出した。
その名も「ハイドロリック・シヴィリゼーション(水利国家)」論。
中国、エジプト、メソポタミア──どこも灌漑と国家がセットで発展してる。

ただしこの説、今では「ちょっと単純すぎるんじゃ?」と批判も多い。
とはいえ、「なぜ中央集権が必要だったのか」を考えるきっかけとしては、今でも十分刺激的だ。

……ちなみにこのテーマ、実は考えながら書いてる途中で出会ったんだよね。
あとから似た説があったと知ったときの、あのちょっと気まずくて、でも少しうれしい感じ。
よくある話だけど、似た風景に自分の足でたどり着いた実感って、案外わるくない。

関連書籍(PRを含みます)

オリエンタル・デスポティズム: 専制官僚国家の生成と崩壊 新評論 / カール A.ウィットフォーゲル 著, 湯浅 赳男 訳 水を支配する者が国家を支配する── 本書は、中国やメソポタミア、エジプトなど、灌漑農業を基盤とした「水利国家」が、いかにして強大な中央集権と官僚制を生み出したかを論じた古典的名著。 20世紀初頭に登場したこの理論はその後批判も受けたが、「なぜ一部の地域にだけ専制的体制が発展したのか?」という問いへの出発点として、今なお示唆に富む内容を含んでいる。

動ける人びとが都市をつくる──産業革命の裏にあった農業の論理

18世紀のイギリス。

農村から人びとが都市へと流れ込み、工場労働者となって新しい経済の歯車を回し始めた──それが産業革命の始まりだった。

だが、なぜそれがヨーロッパで起こったのか。

なぜ、中国やインドのように人口も文明も豊かな地域では、それが起こらなかったのか。

その答えのひとつに、農業構造の違いがある。

ヨーロッパの主穀物である小麦は、広大な土地での畑作に向いている。

収穫量は米に比べて少ないが、労働力あたりの効率は高く、少人数でも広い面積を管理できる。

実際、10アールあたりの労働時間は米の5分の1程度だとされる。

つまり、農業にそこまで人手を必要としない社会が、ヨーロッパには存在していた。

その結果、何が起こるか。

農村に労働力の「余剰」が生まれる。

そして、その人びとは都市に向かい、工場や市場の担い手になっていく。

農業から“解放された人びと”が都市をつくったのである。

対して、東アジアの稲作社会ではどうか。

米は土地あたりの収穫量は高いが、手間もかかる。

田植え、水管理、除草、収穫──一年を通して継続的に人手が必要だ。

村全体で水を管理し、協力して作業をこなさなければならない。

そこには、労働の余剰が生まれにくい。

ましてや、田の管理を放棄して都市へ出るとなれば、農村そのものが立ち行かなくなる。

こうした違いが、やがて「都市化の速度」や「産業化の可能性」にまでつながっていく。

ヨーロッパでは、農村から都市への人口移動が構造的に起こりやすかったのに対し、

稲作社会では、人びとは田んぼと共に暮らし続ける必要があったのだ。

この違いは、人口密度にも現れる。

米を主食とする東アジアでは、限られた耕地に多くの人を養うことができたため、農村に人口が密集しやすかった。

高い労働力密度が、土地の集約と定住を前提とした社会を生んだ。

一方、小麦を主とするヨーロッパでは、労働が分散しやすく、人びとは土地に縛られる必要がなかった。

労働の移動が可能であることが、そのまま都市化と工業化の原動力となった。

技術や思想だけではなく、誰が動けて、誰が土地に縛られていたのか。

それが、産業革命という歴史の分岐点をつくったもう一つの論理である。

猿トル
猿トル

「人が余ってる」って、産業にはめちゃくちゃ都合がいい。

米づくりは人手が足りない。小麦づくりは人が余る。
この“余り”が、都市を動かし、機械を回した。

都市の工場って、べつに賢い人が集まったわけじゃなくて、
農業からこぼれた人たちの“行き場”だったりもするんだよね。

人類の大きな発明って、意外と「暇になった人」がつくってたりする。

民主主義はどこで芽を出すのか──土地と自治の距離感

「民主主義は思想ではなく、生活から芽を出す」──そんな言い方がある。

たとえば古代ギリシアの都市国家では、自由市民による討議と投票が政治の基盤となった。

近代ヨーロッパでも、商業都市や自治都市が台頭し、やがて議会制度や契約思想が生まれていく。

民主主義は、誰かが思いついたアイデアではなく、ある社会の構造がそのまま制度の種になった結果でもある。

この構造の起点に、農業がある。

小麦中心のヨーロッパ社会では、労働が分散しやすく、人びとは土地に縛られにくかった。

農民と領主、都市と地方、教会と国家──

さまざまな「分権の単位」が並立することで、誰かが全体を一方的に支配することが難しい社会が生まれた。

そこには、対話や交渉によって意思をまとめる必要があり、それが制度として姿を変えると「議会制」や「合意形成」の文化へと接続していく。

つまり、分権が前提にある社会では、民主主義という“仕組み”が、自然と求められるのだ。

だがここで忘れてはならないのは、ヨーロッパ自身がこの状況に満足していたわけではないという点だ。

たとえば17〜18世紀、啓蒙の時代。

ヨーロッパの知識人や官僚たちは、中国の官僚制に深い関心を抱いていた。

ヴォルテールは清朝の支配を「理性による統治の典型」と称賛し、儒教を高く評価した。

中国の科挙制度──知によって官僚を選ぶ仕組み──は、当時のヨーロッパにとって羨望の的でもあった。

分権社会に生きるヨーロッパ人が、中央集権的な秩序を“理想的”と見ていた時期があったのだ。

一方で、東アジアの稲作社会では、人口が土地に密集し、灌漑や作業の調整において協調と統制が合理的に機能する社会構造が成立していた。

そこでは、中央による秩序維持が安定と繁栄の条件であり、徳によって統治するという儒教的思想が、それを思想として支えた。

この構造を未熟と見るのは誤りである。

むしろそれは、異なる前提条件の下で構築された、もう一つの合理性だった。

民主主義は、あくまで「分権社会が必要とした制度」であって、

中央集権が最適だった社会にとっては、必ずしも自然な帰結ではなかった。

制度は、正しいかどうかでなく、その社会にとって“必要かどうか”で生まれる。

そしてその必要性を生んだものの一つに、米と小麦、土地と人の関係がある。

猿トル
猿トル

清朝が「理想国家」に見えた時代

18世紀のヨーロッパでは、中国の官僚制度や統治システムが「理性による統治」のお手本とされてた。
ヴォルテールは清の皇帝を“哲人王”みたいに扱ってたし、フランスでは科挙のような実力主義に憧れる声もあった。
民主主義を育てたヨーロッパが、実は“統制された秩序”にちょっと恋してた時期ってのが、歴史の面白さなんだよね。

ヴォルテール(wikipedia):フランスの哲学者、文学者、歴史家

制度は“食べ方”で決まる──穀物が社会に刻むリズム

制度や思想は、どこから来るのか。
文化か、宗教か、知識人のアイデアか。──それももちろん一因ではある。
だがこのシリーズを通して見えてきたのは、もっと素朴な出発点だ。
「何をどう育て、どう食べてきたか」──その生活の積み重ねが、社会のかたちを決めるということ。

米は、高密度な労働を要する作物だ。
そのぶん多くの人を養えるが、農村に人が定着し、土地から離れにくくなる。
灌漑や協調が不可欠なこの作物は、統一的な調整と秩序を求める。
その結果として、東アジアでは中央集権的な官僚国家が発達した。

一方、小麦は労働効率が高く、少ない人手でも広く作付けできる。
農村に余剰労働力が生まれ、都市へ人が流れ出す。
こうして、ヨーロッパでは商業都市と市民階層が台頭し、分権的な政治と市場が成長していった。

この違いは、イデオロギーや倫理観の差ではない。
単純に、米は「集まって耕す」穀物であり、小麦は「分かれて耕せる」穀物だったというだけの話である。

だが、そこから先の分岐は大きい。
人の動き方が違えば、村と都市の関係が変わり、
村と都市の関係が変われば、国家と個人の距離も変わる。
制度や思想は、そうした構造の上に「あとから生える」ものにすぎない。

食べ物は文化の鏡であると言われる。
けれどそれは、単なる見た目や味の話ではなく、社会のリズムを刻む“生活のメトロノーム”なのかもしれない。

猿トル
猿トル

今の日本はどうだろう?
米は高いし、作る人もいない。

かつては「田んぼを守ること」そのものが、制度だった。
それが今じゃ、「作っても儲からない」から、守る人がいなくなってしまった。

需要が減ったから作るのを減らして、
減らしたら足りなくなって、
足りなくなったら「高い」と言う。

──どうも、“お米との付き合い方”を忘れてしまっているのかもしれないね。

文明は食べ物でできてる、なんて話。
案外、バカにできない真実かもね。

比較人類学・文明論系のおすすめ書籍(PRを含みます)

銃・病原菌・鉄 草思社 / ジャレド ダイアモンド 著, 倉骨 彰 訳 人類史を地理・生態・環境の視点から描く世界的ベストセラー。
技術や知性の優劣ではなく、ユーラシアの地理的条件が文明の展開を左右したとする壮大な文明論。歴史・人類学・環境論を横断的に理解するための必読書。
文明の生態史観 中公文庫 / 梅棹 忠夫 著 東西の文明を「生態」として比較した、日本発の独自文明論。
歴史を直線ではなく構造で捉える思考法が凝縮された名著。社会制度や文化の違いを地理的・生態的な環境から読み解く視点は、現代にも鋭い示唆を与える。
オリエンタル・デスポティズム: 専制官僚国家の生成と崩壊 新評論 / カール A.ウィットフォーゲル 著, 湯浅 赳男 訳 「水を制する者は国家を制する」──灌漑と権力をめぐる国家形成論。
古代文明における中央集権と官僚制の発展を「水利国家」という概念で説明した古典的社会理論。単純化の批判を受けつつも、国家と自然環境の関係を考える基礎文献として価値を持つ。
人口論 光文社 / マルサス 著, 斉藤 悦則 訳 人口と資源のバランスを問う、近代経済思想と制度論の出発点。
人口は幾何級数で増えるが、食料は算術級数でしか増えない──この単純な前提が、制度設計や社会構造への思考を導いた。環境・農業・福祉を含む幅広い議論の原型。

コメント

タイトルとURLをコピーしました