なぜ「誤用」と呼ばれるのか?
言語にはしばしば「正しい使い方」と「間違った使い方」が存在するとされる。
たとえば――
- 「ら」抜き言葉(見れる・食べれる)は誤り?
- 「的を得る」は本来「射る」だった?
- 「全然大丈夫」は“間違った日本語”?
これらの議論は、どれも「本来の意味」や「正しい文法」に照らして判断される。
だが、そもそも“正しさ”は誰が決めているのだろうか?
誤用とは「現在の少数派」にすぎない
言語学では、**“誤用”とはあくまで「現時点で規範から外れている形式」**にすぎない。
つまり、
- 「文法的に誤っている」
- 「意味が伝わらない」
というよりも、
- 「標準とされる用法と違う」
というだけのことが多い。
しかもその“標準”は、時間とともにゆっくりと書き換わっていく。
たとえば「全然〜ない」という否定語法。
かつては「全然いい」「全然好き」などの肯定表現は“誤用”とされていた。
しかし今では、一定の許容範囲として日常語に定着しつつある。
“言語の正しさ”は、政治と制度の産物?
「正しい言葉遣い」をめぐる基準は、しばしば教育制度・報道機関・辞書の編集方針に依存する。
- 明治期の日本では、標準語教育の一環として東京方言が全国的に拡張された。
- 現代では、NHKや文部科学省のガイドラインが“正しい言葉”を事実上定義している。
つまり言語の「正しさ」は、自然に決まるものではなく、制度的に“設定”されたルールであることが多い。

どこまでが正しくて、どこからが間違いなのか──
その線引きって、案外そのときの「えらい人の気分」で決まってたりするんだよね。
ボクらが間違ってるんじゃなくて、“正しさ”のほうが移ろってるのかもしれないって思うと、ちょっと気が楽になるよ。
誤用は“未来の正解”かもしれない
「誤用」とされる言葉が、数十年後には“正しい用法”になっていることは珍しくない。
- 「全然いい」も
- 「的を得る」も
- 「敷居が高い(=行きづらい)」も
かつては辞書が否定し、教師が訂正していた言い回しが、
次第に使われ続けることで新たな標準語の一部になっていく。
正しい言葉とは、正しい人が使った言葉?
多くの言語変化は、実は「誤用」が社会的に力を持った層によって使われたときに定着する。
たとえば:
- 芸能人や著名人が使う言葉が流行語になり、
- メディアが繰り返し発信することで、
- 辞書が後追いで掲載を始める。
つまり、「誤用」が「正用」に変わるには、
意味の明確さや論理的整合性ではなく、
社会的な正統性(誰が使っているか)が大きく影響するのだ。
辞書編集者も迷っている
「正しい日本語」を定義しているかのように見える国語辞典も、
実は常に時代の変化と向き合いながら編集されている。
現代の辞書編集者は、
- 「あくまで記述主義(実際に使われている語法の記録)である」
- 「“間違いかどうか”を判定するものではない」
と明言することが増えている。
つまり、“正しいかどうか”は、言語の本質ではなく、
むしろ“社会がそう決めている”だけなのかもしれない。
規範とされる言葉も、かつては「誤用」と呼ばれていた。
その連なりの上に、いま私たちが使う言語が成り立っている。
では、その“誤用とされる過程”を、私たちはどのように読み解けばいいのか?

間違いって、だれかが「これは間違いです!」って言った瞬間に生まれるんだよね。
でもその人がいなくなったら、間違いのほうが残ってたりする。
言葉って、けっきょく“人が使い続けたほうが勝ち”って話なのかもね。
「誤用」は、誰かにとっての“都合の悪い言葉”
言語の「誤用」は、単なるミスではない。
むしろそこには、社会的なラベル付けの力学がある。
たとえば、若者言葉や方言、ネットスラングが「乱れた日本語」とされるとき、
それは単なる言語の変化ではなく、社会の中の序列や支配構造を反映している。
- 教育を受けていないように見える
- 礼儀を知らないように思われる
- 知的に見えないと評価される
こうした評価は、すべて「言葉遣い」によって“見える化”される。
つまり、「誤用」というラベルは、
しばしば社会的な“烙印”として機能しているのだ。
正しさの仮面をかぶった“マウンティング”
「それ、間違ってるよ」
「正しい日本語使って」
「そんな言い方、教養がないね」
これらの言葉は、直接的には相手を“直して”いるようでいて、
実際には自分の優位性を示しているだけの場合がある。
言語の正しさを盾にして、
“正しくない”人を序列の下に置くための道具として使われているのだ。
言語の自由は、表現の自由に通じる
誰もが同じ言葉を使わなければいけないとしたら、
そこには自由な表現も、個性も、多様性も存在しえない。
言語は生きている。
それは人間の文化、地域、時代、アイデンティティとともに揺れながら変化していくものだ。
だからこそ、「正しさ」を盾にして他者を黙らせることには、
慎重さと自覚が求められる。
私たちが「正しい」と思い込んでいる言葉の多くは、
ほんの数十年前には“間違い”だったかもしれない。
そう考えると、言語の世界における正しさは、
絶対的なものではなく、つねに交渉と再定義の中にあるといえるだろう。
シリーズ:言語はなぜ崩れるのか?
- 自然言語はなぜ崩れるのか?
- なぜ発音とスペルはズレていくのか?──英語とフランス語の“不一致”を解剖する
- 言語は崩れるほうが強い?──不規則性が生む柔軟性と多様性
- 言葉は誰のものでもある──共通語とマイノリティのせめぎあい
- 言語はなぜ崩れるのか?──まとめ
- 今読んだ記事→ 正しさは誰が決める?──言語規範と“誤用”という幻想



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