数年前、当時2歳の娘がレゴブロックで遊んでいた。
カラフルなブロックを30個ほど、無心に組み合わせては笑い、また壊していた。大人の私からすれば何を作っているのかはわからない。けれど、その作品にはなんともいえない魅力があり、それは大人の発想では決して生まれないものであった。
完成を目指しているわけでもない。
けれど、明らかに“今この瞬間にしか生まれ得ない何か”がそこにあった。
「もう一度同じものを作って」と言っても、おそらく彼女には不可能だろう。
これは二度と見ることのない唯一の作品と思った。
そこでふと疑問が湧いた。
「ブロックの組み合わせって、どれくらいのパターンがあるんだろう?」
ランダムに積んだとして、もしかしたら1億通りを超えるのでは?と興味が湧き調べてみた。
すると、2×4サイズの基本ブロックをわずか6個使っただけでも、なんと9億以上の組み合わせがある※という事実に出会った。
思っていた以上どころではない。わずか6個で1億など軽く超えていた。
たった6個でそれなのだから、30個も使った娘の作品は、もはや天文学的な確率で生まれた唯一無二の存在だ。
※参考:The Number of Ways You Can Put Together 6 LEGO Bricks Will Astound You
そのときふと、まったく別の問いが頭をよぎった。
私たちは、こうした“偶然の産物”を「奇跡」と呼ぶべきなのだろうか?
あるいは、私たちが「奇跡」と感じるのは、その出来事に意味を与えているからなのではないか?
たとえば、地球に生命が誕生した確率について、「バラバラに分解された機械式時計を水の流れに任せて元通りに戻るくらいの確率」と表現されることがある。
もちろんこれは比喩であり、科学的な根拠があるわけではないが、人類の誕生は極めて低い確率のうえに成り立っているという考えは多くの人に共有されている。
だからこそ、「奇跡」という言葉がしばしば使われる。
だが、同じように奇跡とも言える確率で生まれた娘のレゴ作品に、世間は「奇跡だ」とは言わない。
その違いは一体どこから来るのか。
たぶんそれは、「その結果が私たちにとって意味のあるものかどうか」による。
人間は、自分自身と関わりがある結果には意味を与えるが、それ以外には目を向けない。
そんな中、ジャン=ポール・サルトルの実存主義を思い出した。
「実存は本質に先立つ
つまり、人間はまず存在し、そしてあとから自らの存在に意味を与える。
生命の誕生にせよ、娘のレゴ作品にせよ、意味は結果の中に埋め込まれているわけではない。
私たちがそこに意味を見い出すから、それが「奇跡」と感じられるに過ぎない。
もちろん、こうした考え方に対して、「偶然ではなく、あまりに精巧な仕組みだから誰かの意図があるのでは」とするインテリジェント・デザインの立場もある。
たしかに、分子の結合や進化のプロセス、宇宙の物理法則の整い具合を見れば、「これは偶然ではない」と感じるのも無理はない。
でもそれは、人間が「意味を先に信じたい」と願う本能のようなものかもしれない。
そうでなければ、私たち自身の存在があまりにも不確かで、儚く感じられてしまうからだ。
私は、レゴブロックが勝手に組み上がっただけでも、十分に美しいと思う。
そこに「目に見えない誰かが設計した」と思わなくても、今この瞬間、娘がそれを作ったことに意味がある。
意味は与えられるものではなく、私たち自身が与えるものだ。
そう考えると、偶然こそが奇跡なのだと思えてくる。

無限の猿定理ってやつ、聞いたことある?
「無限に時間があれば、猿がシェイクスピア全集を打つ可能性もゼロじゃない」って話らしいけど──
じゃあボクがさっき適当にタイピングした
「vhhsh sindh ushhshdgyev jjrhbhhgskqo jsnygvdj……」
理論的には「To be, or not to be……」と同じ確率で生まれたんだよね。
つまり奇跡かどうかなんて、それに“意味”を感じた目の側が決めてるだけってこと。



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