終わることの難しさ──。
戦争が続いてしまった背景には、単なる暴走や狂気ではない「構造」があった。
本記事では、第一次・第二次世界大戦の教訓をもとに、「なぜやめられなかったのか?」そして「どうすれば終わらせられるのか?」を掘り下げます。
※この記事はシリーズ「戦争はなぜ終われなかったのか」の第5回(最終回)です。
「終わる」とは何か──戦争に限らない“継続の罠”
「戦争がなぜ終わらなかったのか?」という問いは、歴史の教訓ではあるが、決して過去の話ではない。
それは、現代の私たちの社会にも通底する、“やめどきを失う構造”に関する問題だからだ。
やめたいのに、やめられない。
誰も止めたくないわけではないのに、止まらない。
それは一部の狂気や暴走ではなく、むしろ集団の中でこそ生じる“正常な判断の失敗”でもある。
戦争は「終われなかった」のではない。終わらせなかったのだ
- 誰かが「絶対に続けたい」と信じていたわけではない。
- 多くの人が「もう限界だ」と感じていた。
- それでも止まらなかったのは、やめることが困難になる構造ができあがっていたからだ。
→ それは、戦争に特有のものではなく、私たちの暮らしの中にも存在している。
「途中でやめること」は、失敗を認める行為でもある
- 長年の政策、巨大なプロジェクト、職場のルール、社会運動──
多くの人の手が加わったものは、「ここまでやってきたこと」を理由に継続が正当化されやすい。 - やめることは、単にプロセスを止めるだけでなく、
「過去の判断が間違っていたかもしれない」と認めることになってしまう。
→ だからこそ、多くの集団は“止める”判断を先送りにし、破局的なタイミングでしか終われなくなる。
現代にもある“終われない構造”の例
- SNSでの論争や炎上:
最初は正義感や共感から始まった言葉が、徐々にエスカレートし、「これは違う」と思っても、途中で発言を控えれば“裏切り者”や“日和見”と批判される。
結果として、「もう参加したくない」と思っても、黙ることすらできずに巻き込まれ続ける。
誰かが意図しているわけではなく、“降りられない空気”が場を支配する。 - 職場の過剰労働や限界組織:
崩壊寸前の部署や長時間労働の職場で、「自分が抜けたら現場がもたない」と考え、合理的判断を保ちつつも抜け出せなくなる。
そこでは「やめること」が利己的とされ、「続けること」が道徳と化す。
責任感や忠誠心が、構造を延命させる燃料になってしまう。
→ 戦争もまた、同じように、「続けたくて続けたわけではないのに、止められない」状況の中で深みにはまっていった。
「終わり方」を知らない社会は、“失敗の連鎖”を抱え続ける
- 戦争の歴史を学ぶということは、「どう始まったか」だけでなく、「なぜ終わらなかったのか」にこそ意味がある。
- それは、「やめる技術」がいかに困難かという理解でもある。
→ 平和とは、「戦争をしないこと」だけではなく、「戦争を終わらせられること」なのだ。
合理性と狂気は分けられるのか──人間の判断メカニズム再考
戦争を終わらせられなかった理由は、必ずしも狂気やイデオロギーによるものではない。
むしろ、その継続には「合理的判断」が積み重ねられていたとも言える。
本章では、人間の思考がなぜ誤るのか、なぜ合理的に見える判断が破滅を導くのかを、いくつかの心理メカニズムを通じて検証する。
「合理的であろうとした結果」が、非合理を生む
- 人は大局的な判断よりも、目の前の状況に最適な選択をしようとする。
- 戦争末期の「もう一度だけ反撃すれば勝てるかもしれない」や、「ここで止めれば犠牲が無駄になる」という発想は、一見理性的に見える。
- だが、こうした判断の積み重ねが、結果として全体を袋小路に追い込む。
→ 合理性の“局所最適化”は、全体としての“非合理”を導きやすい。
戦争を終われなくする“思考の罠”たち
● サンクコスト効果(沈没コスト)
「ここまで犠牲を払ったのだから、今やめたら無駄になる」という感情。
→ 実際にはやめるべきタイミングを過ぎても、やめられない心理。
● 正常性バイアス
「まだ大丈夫だろう」「こんなことは今までにもあった」という思い込み。
→ 危機的状況を“平常”の延長として処理し、行動の転換を妨げる。
● 責任分散
「自分ひとりが止めても何も変わらない」という無力感。
→ 誰かが動くのを待ち、結果的に全員が動かない。
● 同調圧力
「みんなと同じ意見を保つ」ことが、正しい行動よりも重視される。
→ 戦争継続が常識になれば、終戦の声は“裏切り”と見なされる。
→ これらは特異な心理ではなく、どの社会でも発生しうる“正常な集団思考”である。
狂気とは、制度化された合理性の果てにある
- ヒトラーやスターリンのような存在が現れると、「狂気の時代」として歴史が語られがちだ。
- しかし、その支配や決断の多くは、「敵を排除すれば秩序が保たれる」「士気を保てば戦局は立て直せる」といった“もっともらしい”合理性に支えられていた。
- 狂気とは、個人の激情ではなく、合理性が自己目的化したときに出現する構造でもある。
“やめられる社会”と“やめられない社会”の違い
戦争が長引いた理由を、体制や指導者だけに求めるのは簡単だ。
しかし本質的な問いは、「なぜある社会は戦争を終わらせることができ、別の社会はそれができなかったのか」である。
この差は、意思決定の構造や文化の違い、そして“終戦の権限”がどこにあるかによって生まれる。
やめられない社会の特徴:意思決定が一点集中している
- 独裁体制では、終戦の判断はトップにしかできず、その人物が頑なであれば社会全体が止まらない。
- 情報は上層部に集約されるが、現場に届くころには都合よく加工されている。
- 結果、「やめるべきだ」と知っている人がいても、動かせる構造がない。
→ これは過去のナチスドイツや、大日本帝国にも共通する構造だった。
やめられる社会の特徴:分散された決定権と異論の許容
- 民主主義的な構造では、異なる意見が可視化され、極端な判断に対するブレーキがかかる可能性がある。
- 複数の権力(政府・議会・司法・市民社会)が相互に抑制しあうことで、“抜け道”が制度的に保証される。
- また、メディアや言論の自由も、「そろそろやめよう」という空気を形成する潤滑剤になる。
ただし、どちらにも“限界”はある
- やめられない社会は粘り強く、方針が定まると一致団結しやすい反面、誤りの修正が困難で暴走しやすい。
- やめられる社会は柔軟で軌道修正に強いが、内部の足並みが揃いにくく、時に持久力に欠ける。
→ 重要なのは「どちらが良いか」ではなく、社会に“止まるための回路”がきちんと内蔵されているかどうかである。
“空気”を変えられる構造があるかどうか
- どんな社会も、ある種の“空気”に支配される。
- 重要なのは、「その空気を疑ったときに、安全に口を開ける場」があるかどうか。
- 終戦を決断できた社会には、言葉が力を持ちうる環境があった。
終戦後に始まるもうひとつの闘い──記憶と語りの政治性
戦争を終わらせることと、それをどう語るかは別の問題である。
銃声が止んだあとに始まるのは、「この戦争はなんだったのか?」という語りをめぐる長い闘いだ。
この語り方は、社会の自己理解や、将来の再発防止の構造に直結する。
本章では、「記憶」と「語り」が持つ政治性──つまり、“どのように語るか”が“どう生きるか”に関わるという問題を扱う。
終戦を“語る力”のある社会と、語りから逃げる社会
- 戦争の「意味」を公的に語れる社会では、記憶が整理され、次の世代に共有される。
- 語らない、語れない、語ることが分断を生む社会では、過去が宙づりのまま残り続ける。
- 記念碑、教科書、証言、映画──それぞれが「どの歴史を語るか」を選び取っている。
→ 語りは事実ではなく、選択と強調の積み重ねによってできている。
語りは“誰が語るか”によって変わる
- 戦争は、加害者・被害者・観客・犠牲者など複数の立場で体験される。
- だが、戦後社会ではしばしば「語る主体」が一方向に偏る。
- 勝者による「正義の語り」
- 被害者による「苦難の語り」
- 知識人による「反省の語り」
→ 誰が語るかが、どの記憶が正統視されるかに直結する。
記憶の封印は、未来の無関心を育てる
- 「語らないこと」は、一時的な安定や和解を生むこともあるが、やがてそれは「関係のない過去」になり、歴史的想像力を損なう。
- 戦争が“起きたこと”ではなく、“語られること”として継続されているかが問われる。
→ 歴史教育や公共記憶は、事実の再現以上に、「問いを残す語り方」が求められる。
“再発を防ぐ”ということの意味
- 戦争を“防ぐ”とは、制度や軍備の問題だけでなく、「語りによって集団の感情を整理しておく」ことでもある。
- 暴力を可能にする物語が支配しないようにするには、暴力を否定する記憶が“共有”されている必要がある。
未来に向けて──終わらせる技術と想像力の政治学
戦争を終わらせること。
それは単に武器を置くことではなく、暴走した構造をどこかで断ち切り、過去を未来へつなげる判断を下すことにほかならない。
本章では、「やめること」がいかに難しく、それゆえに価値ある選択であるかを、社会的・政治的な能力として捉え直す。
「やめる力」は、制度よりも想像力の問題かもしれない
- 多くの戦争が、終わりを合理的に予測できる段階に入っても、終わらなかった。
- 制度や軍事力ではなく、「自分たちがどんな未来を選ぶのか」を想像できなかった社会では、目の前の“勝てない現在”を惰性で続けるしかなかった。
- 「いま終わることで、どんな未来が拓けるのか?」という視点が失われると、終わりは見えなくなる。
終わらせるには、損得だけでなく“信頼”が必要になる
- 戦争をやめるには、相手を完全に信用するか、自国を完全に諦めるかのような選択が求められることもある。
- それはしばしば、「負け」や「裏切り」と見なされ、意思決定を困難にする。
- だが、逆に言えば、“信頼に基づく終戦”は、その後の関係再構築に強い基盤をつくる。
「終戦」は、特別な瞬間ではなく“設計された選択”である
- 歴史において「偶然の終戦」があったとしても、それを可能にしたのは事前の制度、文化、教育、対話の積み重ねである。
- 終戦の“条件”は、すでに戦争の始まった瞬間から構築が始まっている。
- つまり、“どうやめるか”は、“どう始めるか”と同じくらい慎重に設計されるべき問題なのだ。
現代における「やめるべきもの」とは?
- 戦争だけでなく、環境破壊、分断政治、過剰な競争、暴力的言論、終わりなき制度疲労。
- 私たちは、もはや続けるべきではないものを、誰かが決定的にやめさせてくれることを期待しすぎてはいないか?
- 本当は、「どうやってやめるか」は、一人ひとりが小さな単位で関与できる問題でもある。
最後に問う:「あなたなら、終わらせられるか?」
- 歴史を学ぶことの本質は、「あの時なぜ?」と問うことではなく、 「次があったとしたら、自分はどう行動するだろうか?」と想像することにある。
- そして、その想像の中にこそ、終戦を可能にする“技術”と“感性”が育つ。

ボクたちって、つい“最後までやりきる”ことに価値を置いちゃうけどさ。 本当に大事なのは、「このままじゃまずい」って気づいたときに、すっと引き返せる力なんじゃないかな。
やめるって、逃げじゃなくて、“つなぐための選択”かもしれないよ。
関連書籍 ※PRを含みます
シリーズ:戦争はなぜ終われなかったのか
- 背後の一撃──第一次世界大戦の敗戦神話とドイツ国民心理
- 勝つ見込みの無い中なぜ止められなかったのか──第二次世界大戦末期のドイツにおける人間心理の罠
- 講和と徹底抗戦──なぜ二つの戦争は異なる終わり方をしたのか
- 終戦のあとに戦いが始まる──責任と記憶をめぐる“戦争の後始末”
- 今読んだ記事→ 戦争はなぜ終われなかったのか──「終わらせる」という選択と、私たちの時代



コメント