悪法も法なり? それとも抵抗は義務か?──法と正義のあいだに揺れる私たちの選択

倫理・思想
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「悪法もまた法なり」と語ったソクラテス。

「不正な法には従うな」と語ったジェファーソン。

対立するように見えるこの二つの立場だが、実はどちらも“社会とどう向き合うか”という問いに誠実に応えていた。

ここではソロー、ガンジー、キング牧師など歴史に名を残す思想家たちの選択をたどりながら、現在の私たちにとって法とは何か、正義とは何かをあらためて考える。

法は「守るもの」か、「問うもの」か

「悪法もまた法である(Summum ius, summa iniuria.)」

この一節は、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが法に従って自死を選んだというエピソードと結びついて、現代にも頻繁に引用される。たとえ不正であっても、法は社会の秩序を支える土台であり、それを一個人が軽々しく破ってしまえば、制度全体が崩れる。そんな合理性の裏付けがある。

しかしそれと同時に、こんな言葉もある。

「不正が法となるとき、抵抗は義務となる」

こちらはアメリカ建国の父、トーマス・ジェファーソンに帰される思想の要約であり、後のヘンリー・デイヴィッド・ソローや公民権運動、非暴力不服従運動にも通底する価値観だ。

法が正義を損なうとき、それに従うこと自体が罪になる。

そう考える人々もまた、歴史の中で確かな行動を残してきた。

どちらが「正しい」のか。

この問いは実は、そんなに単純な二択ではない。

ソクラテスは、理不尽な判決にあえて従うことで、「法とは何か」「正義とは何か」という問題を残した。

つまり、彼は法を守ったのではなく、法のあり方を社会に問いかけたのだ。

その姿勢は、戦後の日本で配給制度の外で食糧を得ず餓死したとされる元判事・山口 良忠にも重なる。

彼の行動もまた、「従順な公僕」というより、「制度の不条理を自らの死で浮かび上がらせた抵抗者」とも解釈できる。

一方でジェファーソンやソローは、法が不正ならばそれを破り、変えるべきだという姿勢を取った。彼らにとっては、法を破ることが法を守るよりも正義に近づく手段だった。

表向きは正反対の二つの立場。

だが、よく見るとどちらも同じ問いに向き合っている。

法とは、ただ従うべきものなのか?

それとも、正義の尺度で測り直すべきものなのか?

正義のために、法を超える

もし法が社会を支える柱だとしたら、その柱が腐っていたとき、私たちはどうするべきだろうか?

アメリカ独立の理念を築いたトーマス・ジェファーソンは、不正な政府に対して「市民が抵抗するのは権利ではなく義務だ」と考えていた。彼にとって国家は“正義を実現するための道具”にすぎず、もしそれが機能しなくなれば、遠慮なく修理すべき、あるいは作り直すべき対象だった。

19世紀の思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、その思想をさらに一歩進めた。彼は奴隷制度と対外戦争に抗議して、政府への納税を拒否し、刑務所に入ることを選んだ。そしてその経験を元に書いたのが『市民の反抗』である。そこにはこうある:

「最良の政府とは、最も少なく統治する政府である。そして私は、それすらなくてもよいと考える。」

ここにあるのは無政府主義ではない。むしろ、政府や法の正当性は「従うに値するかどうか」で決まるという、極めて現代的な感覚だ。

彼らにとって「法を破る」という行為は、単なる反抗ではない。それは「より良い法」への道を切り開く行為であり、未来の社会を更新する一種のメンテナンスでもあった。

この姿勢は、時に「秩序を乱す」と批判される。だが、すべての変革はいつだって、少しの“乱れ”から始まる。

現代の私たちもまた、同じような問いを抱えているはずだ。

ルールを破ってまで声を上げることは許されるのか? そもそもその「ルール」は、誰のためのものなのか?

法を守りながら、抗うという選択

ここまで、法に従って問いを投げた者たちと、法に抗って正義を貫いた者たちを見てきた。

しかしそのどちらでもない、

「法の中にとどまりながら、法の外にある正義を実現しようとした」人物たちがいる。

代表的なのが、インド独立の父・マハトマ・ガンジーだ。

彼はイギリスによる植民地支配という巨大な不正義に対して、暴力ではなく「非暴力・不服従」という手段で抗った。

塩の専売法に対する「塩の行進」は有名だが、あれも一種の法的違反である。だが彼は暴力に訴えることなく、民衆があえて法に違反することで法の正統性を揺るがすという戦略を取った。

この方法は「法を破る」のではなく、「法の矛盾を鏡のように映し返す」ことに近い。

この思想は、アメリカの公民権運動に大きな影響を与えた。

なかでもマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、明確にこう語っている。

「人は不正な法に従わない道徳的責任がある。」

彼もまた、非暴力と制度内の変革を軸に据えた運動を展開し、街頭でのデモやボイコット、座り込みを通じて、「正義の欠如を、あくまで平和的に可視化する」ことを目指した。

ここで重要なのは、彼らが「法を否定した」のではないという点だ。

むしろ、法の持つ理想や力を深く理解したうえで、それが現実と乖離したときに修正を迫ったのである。

ガンジーやキング牧師の行動には、「法=秩序」という見方と、「正義=変革」という見方の両方が含まれていた。

そしてその間にある矛盾を、破壊ではなく“誠実な違反”によって乗り越えようとしたのである。

猿トル
猿トル

塩の行進
1930年、マハトマ・ガンジーがイギリスによる塩の専売制に抗議して始めた非暴力運動。
民衆とともに数百キロを歩き、海岸で自ら塩を作るという行為を通じて、植民地法の不当性を世界に訴えた象徴的な抗議。

異なる行動、同じ覚悟

「悪法も法なり」と言い残して毒杯をあおったソクラテスと、

「不正な法には従わない道徳的責任がある」と語ったキング牧師。

両者は真逆の言葉を口にしたが、どちらも軽々しく従ったわけではなく、軽率に反抗したわけでもない。

そこには共通するある「覚悟」があった。

それは――社会と真剣に向き合おうとする、主体的な意志だ。

ソクラテスや山口 良忠は、「法に従う」という選択を通じて、社会に深い問いを残した。

ジェファーソンやソローは、「法に抗う」という行動によって、より良い制度の可能性を示した。

ガンジーやキング牧師は、対立を越えて、理想と現実のあいだで誠実に揺れながら行動した。

彼らは誰も、「今ある制度は完璧だ」とは考えていなかった。

むしろ、「制度はつねに問い直されるべきもの」であるという前提に立ち、

それぞれの手法で社会にメッセージを残した。

ここで重要なのは、行動の“形式”ではなく、“姿勢”である。

法に従うことも、 法に抗うことも、 そのはざまで葛藤することも、

すべてが「社会とどう向き合うか」の表現であり、

自分の生き方と他者のあり方を同時に問う、公共的な営みだった。

だからこそ、彼らの行動は一過性の事件ではなく、今も引用され、議論され、学ばれ続けている。

では、その“問い”を私たちはどう受け止めるべきなのか。

次に2025年という現代において、このテーマがどのように私たち自身に跳ね返ってくるのかを考えてみたい。

2025年の私たちは、どう選ぶのか

法律は社会を形づくる枠組みであり、ルールは秩序の前提だ。

だが、それらが常に正義と一致しているとは限らない。むしろ、時代が変わってもなお、どこか釈然としない制度やルールに私たちは日々直面している。

例えば、誰もが形だけ守っているような形式的な規則。

個人の尊厳を損なっているのに放置されている運用ルール。

多くの人が「これはおかしい」と思っていながら、それを口にした途端に“空気を読まない人”として扱われるような状況。

これらは明確な「悪法」ではないかもしれない。

だが、それでもなお、私たちの行動を試す“静かな不正義”である。

2025年の今、私たちはかつての思想家たちと同じような選択を迫られている。

ルールに従うことで、問いを浮かび上がらせるのか。 あえて破ることで、制度の不条理に対して異議を表明するのか。 あるいは、制度内にとどまりながら、その矛盾を穏やかに解体していく道を選ぶのか。

どれが正解というわけではない。

大切なのは、自分の選択が社会にとってどんな意味を持つかを考え続けることだ。

かつての偉人たちは、決して完璧ではなかった。

だが、彼らは「ただ従う」でも「ただ壊す」でもない、思索と実践のはざまで揺れる姿を見せてくれた。

それは今の私たちにもできるはずだ。

いや、むしろ今こそ――必要とされているのかもしれない。

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