戦前の日本陸軍にあって、戦術よりも戦略を語った異端の軍人がいた──石原莞爾。
満洲事変を仕掛け、日米の最終戦争を予見した彼は、理想家か、それとも冷徹な現実主義者だったのか。
その功と罪をたどると、そこには“戦略なき国家”の構造的な欠陥が浮かび上がる。
そしてその構造は、いまの日本にも静かに連続している。
異端の戦略家──石原莞爾という男
石原莞爾(いしわら・かんじ)は、1889年、山形県鶴岡市に生まれた。東北の旧家の出身で、幼い頃から秀才の誉れ高く、やがて陸軍士官学校、陸軍大学校を首席で卒業。優等生としての王道を歩みながら、その思考はむしろ型破りの戦略家として知られるようになる。
若き日に渡欧し、第一次世界大戦の戦場視察やドイツ軍の分析を通じて、彼は「戦争とは戦術ではなく文明の衝突である」と確信するようになる。その思想は、後に彼の代表作『最終戦争論』へと結実していく。
その後、陸軍省や関東軍で頭角を現し、1931年、関東軍作戦主任参謀として満洲事変を計画・実行。この成功によって「天才参謀」と呼ばれ、一躍時代の寵児となった。
だが、その華々しい成功の裏には、後に日本を破滅へと導く、重大な“構造的前例”が含まれていた。石原莞爾の功と罪は、すべてこの満洲事変に集約されている──そう言っても過言ではない。
寡兵で制す──戦略家・石原莞爾の「功」
1931年、満洲(現在の中国東北部)に駐留する関東軍は、奉天(現在の瀋陽)郊外で鉄道爆破事件を「自作自演」する。これがいわゆる柳条湖事件であり、ここから満洲事変が始まった。
事件の首謀者は、関東軍作戦主任参謀の石原莞爾。中央の陸軍首脳も、政府も、もちろん天皇も命じていない。完全な現場の独断である。
だが、この「暴走」は結果的に圧倒的な成功を収める。約1万人の日本兵が、10万以上の張学良軍を退け、数週間で満洲全域を制圧したのである。まさに寡兵で広大な地域を制すという、軍事史上でも稀に見る快挙だった。
しかも石原の思考は、単なる軍事的勝利にとどまらない。彼はこの満洲を、単なる植民地ではなく、日本が欧米と伍するための経済的・文化的モデル国家にするという大戦略を描いていた。
「理想の国家を満洲に建設し、アジアの解放と東洋精神の復興を目指す」──これは石原が繰り返し語った構想だった。
この理想主義と現実主義が融合した戦略観こそが、当時の日本軍の中では異質だった。多くの軍人が局地戦の勝利にしか興味を持たない中、石原は常に「その先」を見ていた。
彼の戦略は、一見すると非合法で暴力的だったが、背後には驚くほどの計算と構想があった。「やるべき戦争」「避けるべき戦争」の区別を持っていた数少ない軍人でもある。
この時点で、石原莞爾は陸軍のヒーローとなった。そしてそれが、後の“罪”へとつながる。
理想国家のはずが──石原と満洲国の現実
石原莞爾が描いていた満洲の未来図は、単なる日本の植民地ではなかった。
「五族協和」
──日本人・中国人・満洲人・朝鮮人・モンゴル人が共存する多民族国家。
「王道楽土」
──西洋的な搾取ではなく、東洋的な道徳と調和による統治。
石原は、欧米の帝国主義に対抗する“文明のモデル”として、この地に新しい国家を築こうとした。しかしその理想は始まる前から崩れ始めていた。
1932年、満洲国建国直後、石原は「新国家建設の中心人物」として本来ならば継続的に関わる立場だった。だが彼の急進的で独自路線の戦略思想は、軍中央や官僚機構にとってあまりにも異質だった。
結果、彼は軍務局長をわずか1年で更迭され、仙台の師団長へと左遷されてしまう。これは実質的な更迭であり、石原はその後、中央への復帰の機会を失っていく。
彼のいない満洲では、陸軍と政府の官僚が主導権を握り、理想国家は日本の軍事・経済的都合を優先する「傀儡国家」へと変質していった。
役所の要職は日本人で固められ、満洲人や中国人は名目的な存在にすぎなかった。「五族協和」はプロパガンダとなり、「王道楽土」は監視と収奪の象徴に堕した。
石原は後に、かつて自らが生み出した“構想”が真逆の方向に歪められている現実を見て、深い失望を口にしている。
「これではただの泥棒国家ではないか。私はそんなものを創るつもりはなかった」
だが、もはや彼の声は権力の中枢には届かず、理想なき実務屋たちによって、満洲国は拡張と支配の道具と化していく。
模倣される独断──石原が生んだ「前例」という罪
石原莞爾が仕掛けた満洲事変は、戦略的には鮮やかだった。寡兵で広大な地域を制圧し、国際的非難も振り切って既成事実化する。これが「やってしまえば勝ち」という空気を軍内に植え付けた。
本来、軍隊は命令と統制に従うべき組織である。だが、石原の成功が「現場判断での開戦」すら許される前例となり、以後の軍人たちはこの“石原方式”を模倣し始める。
問題は、石原のような戦略家が続かなかったことだ。
彼の後に続いたのは、政治感覚も国際感覚も持たない“現場主義の兵隊たち”だった。1937年の盧溝橋事件も、現場の小競り合いから拡大したものであり、東京の指導部が止めようとする前に、現地が既成事実を積み重ねていた。
石原の「戦略的独断」は、凡庸な者たちによって「戦略なき独断」へと堕落した。
しかも、彼らは戦線拡大を目的化し、中国の奥地へ奥地へと進軍していく。それは石原が「避けるべき消耗」としていたものだった。つまり、彼の警告通りに日本は“最悪の戦争”に足を踏み入れたのだ。
そしてもう一つ、石原の独断がもたらした重大な副作用があった。それは、制度の側に「チェック機能」を壊させたことである。
満洲事変の後、石原は処罰されるどころか昇進し、世論も政府も、さらには昭和天皇もそれを追認した。この成功体験は、軍の“暴走”が「愛国的行動」として賞賛される風潮を生んだ。
一度追認された“非常識”は、次からは常識として繰り返される。
その後、日本は次々に戦線を拡大し、最終的にはアメリカとの全面戦争に突入する。まさに石原が「最終戦争」として想定していた相手との衝突だったが、そこに至る道筋は、石原が描いた構想とは似ても似つかない愚策の連続だった。
戦略家の孤立──敗者の中の予言者
満洲事変の成功で一躍注目された石原莞爾だったが、1930年代後半にはすでに陸軍内で異端視される存在になっていた。
彼は、中国との戦争を「最終戦争ではない」と明確に否定し、徹底的に反対した。狙うべきはアメリカとの最終戦争──そのためには満洲を整備し、中国とは衝突を避け、国力を温存する必要があるというのが彼の持論だった。
しかし、時代の潮流は逆に流れた。軍部は拡大主義を強め、次々と戦線を南へ西へと広げていく。石原は軍務局長として中央に戻るも、東條英機ら統制派と対立し、再び左遷。やがて予備役編入となり、事実上の追放処分を受けた。
「戦略を語る者は、戦争を止める者になる」──石原はこの矛盾を体現した存在だった。
以後、彼は政治にも戦争指導にも関与せず、敗戦を迎える。戦後は一転して平和主義的な言説を発するようになり、戦犯指名も回避され、静かな晩年を送った。
皮肉なことに、石原が警鐘を鳴らし続けた**「対中戦の泥沼化」と「日米開戦の準備不足」**こそが、日本を敗戦へと導いた最大の原因だった。
予見していたのに止められなかった。
理想を持っていたのに潰された。
成功したがゆえに、その後の失敗を助長した。
石原莞爾は、軍国主義者と呼ぶにはあまりに戦略的で、理想主義者と呼ぶにはあまりに現実的だった。
まさに「功罪が背中合わせの思想家」である。
理想と前例のあいだで──石原莞爾の遺したもの
石原莞爾は、旧日本陸軍において最も戦略的であり、最も理想主義的であり、そして最も危険な前例を残した男だった。
その手腕は確かだった。
寡兵で満洲を制圧し、欧米に対抗するアジアモデル国家を構想した先見性は、本来なら“英雄”として語られてもおかしくない。
だが彼の成功は、制度として正当化され、模倣された。戦略のない現場判断が許容され、泥沼の戦争が自動的に拡大されていく。その流れを誰も止められなくなった。
功績が、罪の原点となった。
才能が、凡庸な模倣を呼び込んだ。
石原が描いた『最終戦争論』にある「日米間の文明戦争」という予見は、結果的に現実となる。
だが、その戦争は、彼が意図した形ではなく、もっと杜撰で無謀な形で始まり、終わった。
では、石原莞爾とは何だったのか?
正義か悪かでは語れない。
だが、明らかに言えるのは──もし石原のような戦略家が、最後までその構想を実行できる立場にあったなら、日本の進路はまったく違った可能性を持ち得たということだ。
そして、彼のような人物すら制度の中で排除され、凡庸な暴走が常態化するのが「戦争国家」の末期症状なのだとしたら──私たちは、そこから何を学ぶべきだろうか。
戦術家はいても、戦略家は潰される国
日本には優れた戦術家は多くいた。中隊・大隊レベルで日本兵は屈指だったと評価されている。
だが、全体を俯瞰し、国家の進むべき方向を定める戦略家は、ほとんど現れなかった。現れたとしても、空気によって潰された。
戦局はつねに場当たり的に拡大され、「誰が決めたか」が曖昧なまま、国が滅びていった。
これは、「指導者なきファシズム」の典型である。
ドイツにはヒトラーがいた。
イタリアにはムッソリーニがいた。
だが日本には、誰もいなかった。
だからこそ、誰も責任を取らず、誰も止められなかった。
石原莞爾は、その曖昧な国家の中で、唯一未来を語った戦略家だった。
そして皮肉にも、彼の成功が、凡庸な後続たちに暴走の免罪符を与える“前例”となってしまった。
現代に響く、戦略なき国の行方
石原莞爾の物語は、過去の悲劇ではない。それはいまの日本にも静かに流れ続ける構造そのものである。
誰も決めず、誰も責任を取らず、
“空気”が物事を動かす政治
長期戦略の不在
場当たり的な対応で現場に負荷を押しつける行政…
明確なビジョンを語る者が「浮いた存在」とされ、排除される空気
戦術の名人はいても、国家の「目的地」を語れる戦略家は、いまだに育たない。
石原が残した功罪とは、彼一人の行動ではなく、この国が抱え続ける“構造”の縮図だったのではないか。
石原莞爾が排除されたのは、彼が間違っていたからではない。構想を語ったからだ。
戦前日本では、長期戦略より「今どうするか」が重視され、全体の方向性を語る者は“異物”として扱われた。
空気に沿う判断が歓迎され、空気に逆らう戦略は「理屈っぽい」「危険」とされて排除された。
この構図は、戦後も変わっていない。
・現場の工夫と根性で制度の欠陥を補い
・誰も責任を取らずに合意形成が進み
・長期ビジョンより、空気の流れに沿う意思決定が優先される
石原を葬ったのは、ある個人や政権ではない。構想を許さない「空気の構造」だった。そしてそれは、今もこの社会に息づいている。



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