国家がなければ社会は崩壊する。
学校でそう習い、ニュースでもそう語られ、私たちはそれを疑うことなく信じてきた。
けれど、人類学者デヴィッド・グレーバーは言う。
「国家のない社会の方が、じつは長く安定していたのでは?」
本稿では、グレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』を手がかりに、
私たちが当然と考えている“秩序”の正体を問い直してみたい。
「国家」という幻想のはじまり
「国家がなければ社会は崩壊する」
この言葉に、あなたはどこまで確信を持って頷けるだろうか。
教科書には、国家の成立が人類の“進歩”の証として描かれる。
国家が誕生し、法律が整い、軍が民を守り、税がインフラを支える──まるで文明化のレールの上に置かれた列車のように、国家なき社会は“未開”と見なされてきた。
けれど、人類学者デヴィッド・グレーバーが静かに語るのは、まったく異なる人類の姿だ。
国家が存在しなかった時代、つまり人類の大半の歴史において、人々はどうやって秩序を保ち、衝突を避け、共同体を維持してきたのか。そこには驚くほど洗練された、「国家によらない社会の技法」があった。
たとえばアフリカのイボ族は、裁判も警察もないにもかかわらず、緻密な相互扶助と評判の共有によって、重大な暴力をほとんど発生させずに暮らしてきた。
あるいはアマゾンの狩猟採集民たちは、固定的なリーダーを持たず、状況ごとに臨機応変に役割を変えながら、数十人規模の集団を安定的に運営していた。
どれも、「国家」がなくては成り立たないとされる社会機能──ルール、秩序、合意──が、国家なしで成し遂げられていた例だ。
むしろ、国家が入り込んだとたんに暴力が激化したり、従来の合意形成が壊れたりするケースも多い。
秩序とは、強制によって維持されるものなのか。それとも、相互理解と対話によって成り立つものなのか。
私たちは後者を“理想論”と片付けるけれど、それは本当に現実を見ていることになるのだろうか?

国家なき社会の例は意外と多い
人類の歴史のおよそ95%は国家を持たずに暮らしてきた。
国家が登場したのはごく最近のことで、それ以前も人々はルールや儀礼を通じて秩序を築いていた。
つまり「国家がなければ無秩序」という考えは、むしろ例外的な時代の常識に過ぎないのかもしれない。
秩序は“上から”か、“横から”か?
秩序とは、誰が、どこからつくるものだろうか。
私たちの多くは、「秩序とは上から下へ与えられるもの」だと信じている。
政府が法律を定め、警察がそれを守らせ、違反すれば罰がある。
つまり、誰かがコントロールしてくれるから安心できるというわけだ。
ルース・ベネディクトは『菊と刀』の中で、日本社会を「恥の文化」と呼んだ。
そこでは内発的な倫理よりも、他者の目と社会的地位が秩序の根拠となっている。
ルールは「守るもの」ではなく、「破ると見られるもの」だから守られる。
この構造は国家の法制度とも似ていて、外部の視線や罰則によって“行動を正す”という形で秩序が生まれる。
だが、グレーバーが示すのは、まったく異なる秩序のあり方だ。
たとえば、東アフリカのヌエル族は国家を持たず、警察も裁判も存在しない。
それでも、親族関係と儀礼、そして日常的な贈与のネットワークによって、争いを抑え、信頼を育てていた。
こちらでは、恥を感じる“外の目”がなくても、秩序は生まれていた。
ルールは誰かに従うためではなく、互いの関係性を壊さないためにある。
つまり、秩序とは必ずしも“上”からの統制によるものではなく、“横”のつながりから育つものでもあるのだ。
この「横からの秩序」は、現代にも垣間見ることができる。
たとえば、かつて香港に存在した九龍城砦はどうだろうか。
この地域は中国とイギリス双方の管轄外に置かれ、長年にわたって実質的な無政府状態だった。
国家の法律も行政も及ばず、違法建築と高密度な人口が混在し、外部からは“カオス”にしか見えなかった。
だが、驚くべきことにその内部では、住人同士の暗黙のルールや協力関係によって、ある種の秩序が保たれていた。
電気や水道は住民の手で引かれ、通路の掃除や建物の維持管理も自主的に行われた。
マフィアの影もあったが、後年には住民の自衛によって過剰な暴力は抑制され、独自の「共存」が成立していたのだ。
九龍城は、決して理想郷ではなかった。
しかしそれでも、「国家によらない秩序が現実に機能していた」ことは、アナーキズムの視点にとって大きな示唆を与える。
秩序は、上から与えられるものだけではない。
むしろ、人間は下から、横から、じぶんたちの関係性のなかで秩序をつくり出す力を持っているのではないか。
では、私たちが信じている“秩序”とは、いったい何なのか?
それは本当に平和のためのものか、それとも黙らせるための構造なのか。

九龍城砦──“無秩序”と呼ばれた秩序
香港にあった九龍城砦は、国家の統治が及ばない“無法地帯”として知られていた。
だが内部では、住民同士による電気・水道の管理、違法診療所の相互監視、建物の共同保守といった実用的な協力関係が存在していた。
国家なき環境でも、秩序は自然発生することがある──それが、人間社会のもう一つの側面だ。
暴力なき社会は“夢物語”なのか?
「人間はもともと暴力的な生き物だ」
こうした言説もまた、「国家は必要だ」という前提を強化する装置の一つだ。
秩序を維持するには、力が必要だ。罰がなければ人は好き勝手に振る舞う。
そんな“前提”の上に、警察や軍隊、法律が積み上げられてきた。
だが、それは本当に“現実的な前提”なのだろうか?
グレーバーが描く非国家的社会には、暴力を回避するための技法がいくつも存在する。
たとえば南米のピダハン族。争いごとが起きると、彼らはすぐに距離を置く。
言い争いが始まると、どちらかがすっとその場を離れる。
恨みを溜めず、ぶつからず、そもそも暴力がエスカレートしないように暮らすのだ。
彼らにとって秩序とは、「誰かを制する力」ではなく、「距離と関係性を調整する技術」である。
そこに“支配”も“勝敗”もない。あるのは、壊れない関係をどう作るかという実践的な知恵だ。
ここで再び、『菊と刀』の話を思い出してほしい。
日本の「恥の文化」は、外からの視線を通じて行動を制御するが、そこには強い“内面化”のプロセスがある。
だが、その秩序は「評価される側」と「評価する側」が分かれている構造だ。
つまり、常に自分を見張るもう一つの自分を内に持つ社会だ。
対して、アナーキズム的な社会では、誰かに評価される以前に、関係性そのものが秩序を形成する。
「人からどう見られるか」ではなく、「関係をどう保つか」が軸となる。
そこには、支配も服従もなく、暴力を必要としない秩序のかたちがある。
私たちがそれを「理想論」と片付けるのは、ただ経験したことがないからではないか。
あるいは、国家という構造の中で「暴力が秩序をつくる」という感覚に慣れすぎてしまったのかもしれない。

人間は本質的に暴力的?
霊長類学では、チンパンジーの攻撃性が取り上げられることが多いが、同じく近縁種のボノボは争いを避け、性的ふれあいや食べ物の共有で関係性を維持する。
つまり、暴力性は必然ではなく、文化的に選択された傾向に過ぎないという見方もある。
物語としての国家
国家は、「物語」である。
もちろん、国旗や憲法や官僚制度といった具体的な構造もある。
けれど、その根本にあるのは、「国家があってこそ、社会は秩序を保てる」というストーリーだ。
この物語は、学校教育やメディアを通じて、私たちの常識として刷り込まれている。
歴史の授業では「文明は国家の成立から始まった」と教えられ、ドラマでは警察や軍隊が秩序の番人として描かれる。
もし“無政府状態”が登場すれば、それは必ず混乱や暴力の象徴として演出される。
つまり、私たちは「国家がない世界」をイメージできないように設計されている。
だが、人類学が示してきたのは、その逆だ。
国家がなくても、暴力のない秩序は存在する。
むしろ、国家が暴力装置として振る舞う場面の方が、歴史上では圧倒的に多い。
それなのに、なぜ国家の“正当性”はこれほどまでに根強いのか?
ここでグレーバーが指摘するのが、「国家の暴力は例外ではなく、習慣化されている」という点だ。
警察の暴力、徴兵制度、税の強制徴収――これらは日常化されており、誰もが「仕方ない」と受け入れている。
それどころか、「国家は暴力を独占するからこそ、暴力を抑えられる」とさえ言われる。
だが、もし国家がいなければ、そもそもその暴力は起きていないかもしれない。
国家が提供しているのは、“平和”ではなく、“国家の定義する平和”だ。
その中に、多少の抑圧や犠牲が含まれていても、それは「仕方ないこと」とされてしまう。
国家は「秩序」の物語を語るが、その裏には常に「正当化された暴力」が横たわっている。
それを見えにくくしているのが、国家という物語の構造そのものなのだ。

国家と「想像の共同体」
政治学者ベネディクト・アンダーソンは、国家や国民を「想像の共同体」と呼んだ。
つまり、実体というよりも“信じられている枠組み”であり、その信仰が制度を支えている。
国家はある意味、「語られ、祝われ、記念される物語」として人々の中に根付いているんだ。
秩序を選びなおす──アナーキズムが照らす未来
「そんなの理想論だ」と、誰かは言うだろう。
国家のない社会、暴力のない秩序、支配のない共同体。
それらは確かに、いまの現実には存在しにくい。
けれど、それは「不可能」だからではない。
「試そうとされていない」からだ。
グレーバーが本書で提示したのは、「国家を倒そう」という革命論ではない。
むしろ、「すでに存在している別のやり方を、見えるようにしよう」という提案だった。
たとえば、コンセンサスによる合意形成。
たとえば、直接行動。
たとえば、相互扶助のネットワーク。
これらは、アナーキストの専売特許ではない。
会社の中でも、地域社会の中でも、小さな実践としてすでに存在している。
その根底にあるのは、「命令されなくても協力できる」という、人間への希望だ。
国家を批判することは、国家をすぐに捨てろという意味ではない。
ただ、国家に頼らずとも成り立つ選択肢があることを知り、
それを少しずつ育てていく余地があるのだと、思い出すことだ。
グレーバーの言うアナーキズムとは、破壊ではなく構築だ。
それは、「いつかの未来」ではなく、
いま・ここで生きていくためのもう一つの方法だ。
私たちはどんな秩序を選び、どんな関係を築いていくのか。
答えは、国家の外にあるわけではない。
それは、国家の中にいる私たち自身の選び方にかかっている。

みんな制度を抜け出して、自由になったはずなのに、どこかでまた、新しい“ルール”を探してる気がするよ。
ボクらはまだ、「誰かに秩序をくれ」って思ってるのかもね。
シリーズ:アナーキーという秩序
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